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2018年5月 6日 (日)

貞永二年正月の除目2

 この除目については「国司一覧」(『日本史総覧』)も混乱している。この除目で藤原隆盛が美濃守に補任されたことはわかるが、分国主については北白河院・後堀河院・中宮(九条道家の娘竴子、後の藻璧門院)のいずれが分国主であるか識別ができない。「明月記」正月二九日条には「土佐・院分、美濃・大殿、備後・又可為院分」とあり、美濃国が道家の知行国となったとの理解もできる。播磨は予定どおり後堀河院分国となったが、美濃国は九条道家の娘である中宮の院分国とし、そのもとで父道家が知行国主として国守を任命するという配慮がなされたのだろう。嘉禎元年閏六月二三日には道家邸で民部権少輔藤原親嗣と美濃守惟長(源、寛喜三年正月正五位下)との間で闘諍があったように、道家が美濃知行国主であった。惟長は延応元年六月一三日に道家が行った仏事にも「奉行人惟長」がみえる。暦仁元年三月九日に道家女子が熊野に参詣した折にも「美濃守惟長(春ヵ)」がみえる。
 播磨国の場合は代替が九条家出身の中宮の分国備中国であったので、近衛殿が辞退したのでそのままとなった。ただし「明月記」天福元年四月九日条によると除目で平時高が備中守に補任されているが、右府卿(右大臣近衛兼経)分と注記があり、紆余曲折の後に受け取っている。
 当初、この除目の結果が何度史料を読んでもわからなかったが、ようやく理解できた。院分国のもと知行国主がいるというケースは珍しくなかったが、国守の任命権を分国主が持つケースもあった。「備中国をめぐる争奪戦」と同様の駆け引きが様々に行われていたが、治天の君たる院がその気になれば、かなり強引な分国・知行国・庄園(領家)の変更も可能であった。

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