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2018年5月31日 (木)

平範家とその子孫2

 親範は久安四年正月から保元元年正月まで伯耆守を務めたが、その後高階仲経に交替している。親範は保元二年一〇月正五位下に除されたが、造営の賞を伯耆守仲経から譲られたためであった。仲経の系図上の位置は確認できないが、母方である高階氏の関係者であろう。長寛二年正月に蔵人頭、翌三年正月に参議。子基親は仁安元年(一一六六)八月に伯耆守を得替した後は承安二年二月には中宮大進、安元元年一二月には蔵人と高倉天皇並びに徳子に仕えたが、治承三年一一月の平氏のクーデターで解官された。平家の都落ち後の寿永二年(一一八三)一二月には還任し、建久元年(一一九〇)一〇月には四〇才で従三位兵部卿に補任され公卿となった。基親の没年は不詳だが、建保二年二月一七日付の親範置文に署判しておらず。これ以前に死没していた。父親範は八四才であった承久二年九月に死没している。
 範家-親範-基親が伯耆国における庄園成立に関与している。元仁元年の宣陽門院領目録には波積庄、久永御厨、矢送庄、宇多河東庄がみえるが、いずれもこの一族が成立にかかわった庄園である。
 宣陽門院領久永御厨は後白河院の長講堂領を継承したものであるが、伊勢神宮の御厨としての性格も持っていた。建久三年の給主(預所)は大宰大弐藤原範能であったが、その室である範家女子を介して範能が譲られた可能性が高い。承安四年(一一七四)には若狭国の若狭時定による押領を久永御厨が知行国主平時忠を通じて訴え、後白河院の評定で対応の協議がなされている。鎌倉末には久永御厨内大久保保が勧修寺経顕の子経方が譲られている。同じく宣陽門院領としてみえる稲積庄については上賀茂神社領としてもみえ、税の一部が納められていたと思われる。正治二年二月二八日吉田経房処分状では、親範から譲られた稲積庄が葉室光親に譲られたが、光親が承久の乱で後鳥羽による倒幕に反対したにもかかわらず処刑されたこともあってか、元仁元年(一二二四)の領家は光親の叔父である葉室定頼であった。
 矢送庄は建保二年二月十七日平親範置文案では親範と吉田定経との間に生まれた中納言典侍局経子(葉室光親室)に譲られ、その年貢の一部が親範の三ヶ寺の布施料に宛てられた。同じく宇多川東庄は三ヶ寺の寺僧に付けられた。

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