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2018年5月18日 (金)

毛利時親譲状2

 この師親に対して、応安年間に比定できる六月一九日宝乗(時衡=時茂)書状では、了禅(時親)跡の所領の相続については、時親の譲状と置文並びにそれを惣領(北条氏)毛利丹後入道慈阿が認めた証状を有していることにより、自らの正当性を主張している。宛名の郡山殿について、秋山伸隆氏は元春申状にみえる「郡山権大僧都」に比定する新たな説を提唱したが、やはり『大日本古文書』が比定する元春だとすべきである。元春が③の譲状を根拠とするのに対して、宝乗は②の譲状を根拠に自らの正当性を主張している。これに対して、元徳二年の譲状は偽文書である。

    元春申状の中に、「親父親衡帯了禅譲状事、元弘曾祖父了禅以下悉在国越後国為先代方之時、親衡在国安芸国之間、給綸旨馳参船上罷上間、其時了禅未為時親之時譲」とある。
元春への譲与との関係が問題となっており、これは②の譲状が作成された時期に、吉田庄について行われた譲与を示すのであろう。吉田庄は貞親領として没収された形だが、将来的にこれを取り戻すという前提で、親衡に譲られたのであろう。時親流毛利氏は貞親が北条氏の謀叛に荷担するとの疑いから、所領を没収され、親衡の船上山での勲功により、佐橋庄南条は没収を免れ、所領の再分割がなされたが、没収された所領についても新たな譲与がなされたのである。
 親衡は吉田庄を譲られたので早くから入部したのではないかとの疑問も出ようが、親衡は貞親の長子ではあるが庶子であり、それがゆえに吉田庄地頭代として入部したと考えられる。くりかえしになるが、元徳二年の譲状は後になって作成されたものである。

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