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2018年5月 1日 (火)

領家藤原光隆の下文2

 ただし、予期せぬ事態として東国御家人である目代兵衞尉政綱が、頼朝と対立して奥州藤原氏のもとへ逃れていた義経との関係を有しており、頼朝は義経を滅ぼす際の不安を除去するため、政綱の解任を求め、政綱を拘束した。さすがに、政綱の後任を頼朝が推薦することは考えがたく、これにより頼朝の御家人である政綱が目代、資忠が惣検校というコンビで進められたきた体制にヒビが入り、資忠が関係する隠岐国の問題を含めて報告を受けていた後白河上皇は、頼朝に資忠の解任に同意することを求めたと思われる。そして、造営終了目前に、遷宮の際に御神体を抱懐する国造孝房を惣検校にすべきとの後白河の要請に妥協して、頼朝は資忠の解任に同意し、領家光隆も惣検校に孝房を復帰させた。
 遷宮が終わると国造孝房と内蔵資忠の両方から惣検校補任を求める請文が提出されたと思われるが、光隆は頼朝の要請を受けて、惣検校を資忠に交代させた。これをうけて国造孝房とそれを支持する人々が働きかけ、国衙在庁官人が孝房を支持する解状を提出した(実際には国造が作成したものに署判したのみ。同時に過去の国造補任文書についての粉失状も作成した。その背景については宗孝流が出雲宿祢内の新興勢力であったから)。しかし、領家光隆は頼朝との連携を重視して、重代相伝だとして資忠を神主に補任し、これをうけて頼朝も政所下文と袖判下文で安堵したのである(やはり以下の様に復元してみた)。
領家下文
    (花押)
下 杵築大社神官等
 補任惣検校職事
  内蔵資忠
右人依為重代相伝者所補任彼職也、御神事以下御年貢諸役可令勤仕之状、所仰如件、神官等宜承知、勿違失、以下、
 建久三年七月 日

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