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2018年5月19日 (土)

毛利北条氏について2

 ただし問題なのは、毛利経光から佐橋庄北条を譲られた基親(基頼)流が惣領で、時親は庶子であることが確実なことである。本来は鯖石川中流域の「南条」が中心であったであろうが、地頭職を得た毛利季光以降、佐橋北条内「北条」や鯖石川下流域の開発が進み、中心が変わったと思われる。そのため、嫡子基親に佐橋庄北条が譲られた。田村氏の前提は成り立たないのである。そして毛利南条氏惣領は匡時ではなく、石曽祢を支配していた道幸―憲広である。通説や田村氏の説ではいずれも憲広が元豊と改名=同一人物とするが、関係文書を読むと、安田朝広(憲朝・常全)は嫡子房朝への譲状を作成する際に、舎兄である元豊に筆をとってもらったことしか確認できず、そこでみえる惣領石曽祢氏(憲広)と元豊は別人である。憲広・朝広兄弟の名前からすると、道幸の出家以前の名前は親広ないしは広親であった可能性が高い。
 話を本論の北条氏に戻すと、過去帳の記載から基親―時元―経高までは復元できるが、その子については情報が乏しいようである。その背景として、北条氏が反幕府方であったことがある。毛利親衡は越後から安芸へ遷る際に幕府方となった。越後国の所領は敵方が支配しており、有名無実であるとして、了禅が吉田庄内の所領を一期分として与えた。了禅の死の前後に師親は粉失状を作成したが、その証人として肝心な毛利北条氏惣領はみえない。越後にいた親衡が建武元年頃に了禅から譲られた際には、惣領毛利丹後入道慈元が証人となっているが、その時点では対立はなかった。越後に残った親衡の子を含む南条氏についても同様であった可能性が高い。

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