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2018年5月12日 (土)

杵築社領の本家2

 弘安六年に安嘉門院が死亡したため、その所領は亀山上皇が相続したが、正安二年(一三〇〇)に室町院が死亡したため、その遺領の相続問題が発生した。室町院は本来は一期分の領主にすぎながったが、後継者宗尊が死んだこともあり、大覚寺統の亀山上皇と持明院統の伏見天皇がそれぞれ室町院の養子となり、所領の譲状を得ていた。
 裁判は幕府に持ち込まれ、一旦は院領を室町院一期分と永領分各五〇数ヶ所に分け、前者を宗尊の子瑞子女王に、後者を亀山と伏見で折半するという幕府の判断が示された。ところが、瑞子女王は亀山の猶子となった上に後宇多院の後宮に入り、正安四年正月には准三后となり院号を宣下され永嘉門院となった。これにより、室町院領の四分の三が大覚寺統分となったことに不満を持つ伏見が、式乾門院から宗尊への譲状は翌年の室町院への譲状により破棄されたと抗議した結果、永嘉門院の相続分は取り消され、室町院領全体が亀山と伏見で折半された。
 嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録に室町院領分尾張国味岡庄に入道相国と永嘉門院の注記がある。領家職を分割していたのだろう。永嘉門院と前院宮との注記がある阿波国福井庄についても同様であろうか。昭慶門院所領目録は実際には亀山院領であった時期の関係者を記している。
 正和元年(一三一二)には醍醐寺報恩院の供僧等が寺辺田畠・屋敷地に対する甲乙人による濫訴の停止を求め、後宇多上皇院宣で認められているが、そこには甲乙人は伏見上皇に訴えたり、永嘉門院に属したり、幕府の口入と号して裁判を続けたことが非難されている。年未詳二月二八日永嘉門院令旨が伊予国河原庄について出されており、河原庄も永嘉門院領であった。嘉暦四年(一三二九)七月には金沢貞顕が後醍醐天皇と中宮、花園上皇とともに永嘉門院の病のことに言及し、将軍であった宗尊親王の唯一の生存者として心配している旨を書状に記している。
 正慶元年(一三三二)六月日山城臨川寺領目録によると、阿波国富吉庄について、永嘉門院が本家と号して元亨の頃より押妨を行ったことが記されている。後醍醐天皇の第一皇子世良親王は養母昭慶門院から所領を譲られたが、昭慶門院は兄弟である後宇多上皇と同じく正中元年に死亡した。世良親王も元徳元年に死亡するが、その前年に養母から譲られた所領を居所とした禅院に寄進した。これが臨川寺である。昭慶門院領目録には富多庄とみえ、前左兵衛督五辻親氏とその叔父で二位であった宗氏が領家であった。親氏は邦良親王の母宗子の兄弟であり、宗氏は後醍醐の母忠子の兄弟であった。永嘉門院は邦良を養育しており、五辻家との関係を背景に押領したのであろう。

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