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2018年5月24日 (木)

三隅氏と福屋氏の滅亡2

 しかし、大内氏が毛利氏に滅ぼされたため、弘治三年六月には益田氏が毛利氏の支配下に入ることで合意した。近世末の記録には毛利氏が益田氏攻撃を開始すると、益田氏は七尾城を出て三隅・高城の籠城して抵抗したことが記されるが、事実とは認めがたい。
 永禄二年には毛利氏による小笠原氏攻が本格化し、尼子晴久が再度の出兵を行ってこれを救援したが、江川の渡河を毛利氏方によって妨げられ、同年八月には小笠原長雄が毛利氏に降伏した。この間、福屋氏は毛利氏による小笠原攻に参加する一方で、毛利氏の出兵を尼子氏に伝えていた。小笠原長雄の母は福屋氏の出身であった。ところが小笠原氏の降伏でその事実が露顕したため、福屋氏領の一部が没収され、小笠原氏に与えられた。
 福屋氏内部でも親戚関係にある小笠原氏攻撃開始時には異論があったが、福屋隆兼は重臣重富氏を九月二三日に滅ぼし、一二月から小笠原氏との合戦を開始している。この時点では陶氏派の小笠原長雄に対して、尼子氏と結ぼうとした福屋隆兼がこれを攻撃したというものであったが、新宮党討滅と陶晴賢の滅亡により状況は一変した。福屋氏は毛利氏と結び、小笠原氏は尼子氏と結んだのである。
 所領を削減された福屋隆兼は再び永禄四年(一五六五)半ば過ぎには尼子氏と結んで状況の打開を図った。ところが、毛利氏と尼子氏の対立に対して、将軍家による講和が進められていた。これにより福屋隆兼が石見国に派遣されていた尼子氏家臣と結んで反毛利氏の活動を開始したにもかかわらず、永禄三年末に死亡した晴久に代わって当主となっていた尼子義久は、尼子氏本体の石見国派遣を行わなかった。このため、軍事的に劣勢であった福屋氏の反乱は毛利氏により短期間で鎮圧され、福屋隆兼は国外に脱出し、その家臣は毛利氏による攻撃で壊滅的打撃を受けた。
 この福屋氏の挙兵に益田氏への不満を持つ三隅兼忠が呼応したようである。福屋氏の反乱を尼子勝久らによる尼子氏再興戦に連動したものだと記す軍記物では、元亀元年に三隅氏惣領と周布氏の一族がこれに呼応して反乱を起こして毛利氏が鎮圧したと記すが、永禄五年一月には益田氏が板井川で合戦を行っており、その相手は三隅氏であった。同時期には長門国磯之城でも益田藤兼の家臣が一〇名が討死しており、長門国内でも反毛利氏の動きがあった。福屋氏反乱の余波は継続しており、永禄六年正月に比定される毛利元就書状(宛所欠)では、福屋氏一族の刑部大輔が益田に退いてきたことに対して、その身を止めておくように伝えている。益田氏の一族として石見国中西部の有力国人であった三隅氏と福屋氏惣領は滅亡し、その一族が毛利氏の家臣となっていく。三隅氏の場合は隆周の弟で、兼忠の叔父である四八才の寿久が当主となり続いていく。

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