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2018年5月 1日 (火)

偽文書の作成時期再論2

 これを覆すためには、根拠となる文書の偽造と裁判を行う幕府関係者の贔屓が必要不可欠であった。現在残されている関係する偽文書(承久二年一一月一三日関東下知状や嘉禎二年六月五日関東御教書は政孝流と対立する孝綱流が作成した別物だが元徳元年までには作成されていた)はこの裁判に関する下知状が出された正和三年までには作成されていたことは確実である。孝時側は神主が御家人所帯であると主張して正和三年には認められたようであるが、領家雑掌側が主張するように引級=贔屓があったとしか思えない不当な判断であった。両者の提出した文書を確認すれば、国造側が提出したものが偽文書であり、頼朝は領家の補任を安堵・追認することしかできなかったことは明白であったが、国造側に荷担した奉行人が、領家側の文書を不審とする国造側の主張を採用したのだろう。
 建武三年の孝時申状は神主職に関して正和三年八月二七日関東下知状で敗訴した孝助による越訴に対して作成されたもので、そこで述べられた問題は過去の幕府法廷で議論されたものであった。ただし、鎌倉幕府が滅亡したことにより、前回とは異なる判断が示される可能性が高かった。その後の経過を示す史料は残されておらず、建武元年には雑訴決断所牒により、前雑掌の濫妨停止が命じられたことと、貞和二年八月に杵築社領内で本所雑掌と千家孝宗の間で合戦が行われたことしかわからない。建武元年の時点では前年一二月に杵築社の本所号(本家・領家)が停止されたため「前雑掌」と呼ばれているが、貞和二年は「雑掌」であり本所復活により裁判が継続していたことは確かであろう。
 以上を踏まえ、偽文書の作成時期についてまとめると、①弘安四年三月に国造義孝が申状を作成したが、遷宮時には常に国造が神主であったことを通じて、国造が神主を独占していたことを主張。②領家廊御方のもとで出雲実政が神主に補任されたのに対して、神主は御家人である国造が補任されてきたことを国造泰孝が主張。この時点で作成した文書と次の③の時点で作成された文書の識別は難しいが、幕府側の引級により勝訴したと考えられる。本来は国造とは無関係であった三代将軍実朝の書状や領家雅隆の御教書、さらには建長元年の頼嗣が義孝を大庭・田尻保地頭に補任した文書を根拠としたと思われる。
 ③領家に兼嗣が復帰し、泰孝から国造・神主を譲られた孝時は領家からの補任状を得ていなかったので、所領問題を含めて領家・雑掌側が孝時を攻撃し、それを覆す支証を持たない孝時は幕府と相談しつつ偽文書を作成した。その一方で、国造家内部の相続争いもあり、宗孝流の正当性や孝綱流から政孝流に国造が交代したことを正当化する文書を作成した。
 ここでは直接関係しないので触れなかったが、鎌倉初期に過去の記録の都合の良い部分をピックアップして作成した「治暦・天永旧記」も偽文書ではないが、ある意味では歴史を偽造する文書である。以前述べたように、一つひとつの文書は正しくても、その一部のみを残すことで歴史を偽造することができる。歴史研究者はそれに対応できる力量を備えなければ、結果として歴史の偽造に手を貸すことになる。

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