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2018年5月 7日 (月)

弁慶誕生伝説の背景2

 このような義経も八月一四日に改元され文治元年となって以降、頼朝との対立が表面化し、一〇月一八日には義経が後白河院から頼朝追討の院宣を得て、九州と四国の武士を指揮する権限を得て対抗しようとしたが、都周辺には支持者がいないため、一一月三日には頼朝が派遣した追っ手から逃れるため摂津国から船で西国に落ちようとしたが、天候の悪化で失敗し、弁慶とともに追っ手の追求を避けつつ、奥州藤原氏のもとに逃れた。
 頼朝は義経の引き渡しを要求するが、藤原秀衡は応じず、頼朝はその機をうかがっていたが、そうした最中、頼朝が出雲国知行国主藤原朝方と目代兵衞尉政綱が義経と結んでいるとして、その解任を求めた。朝方は解任され、政綱の身柄は幕府の派遣した役人に引き渡された。この政綱は元暦元年四月に頼朝から批判を受けた武士であり、本ブログでは最初の出雲国で守護的役割(守護という名称はまだ使用されず)を担った武士だと考えている。御家人大井実春はすでに元暦二年正月には因幡国目代となっており、二月には頼朝と関係の深い徳大寺実定の知行国である美作国目代に梶原景時が補任されている。頼朝の存在は京都でも知られており、平家への批判が強まる中で伊豆国に配流されていた頼朝に期待し、これと連絡をとる動きも少なからずあった。
 兵衞尉政綱の出雲国目代補任も梶原景時の目代補任と同時期であろう。そして政綱が頼朝のみならず義経との関係を有していた可能性も大きい。知行国主朝方も藤原清衡の依頼をうけて藤原敦光起草の「中尊寺建立供養願文」を完成した能筆家藤原朝隆と中尊寺落成に朝廷の勅使として派遣された顕隆(朝隆の異母兄)の娘との間に生まれており、奥州藤原氏とは関係を有していた。また朝方は後白河院の室忻子のもとで皇后宮・皇太后宮の大夫を務めていたが、そこでは義経の母常盤の再婚相手一条長成も同僚であった。常磐と長成の子能成は義経の都落ちに同行している。
 さて、鎌倉初期の出雲国目代政綱と義経の関係に続いて、問題は弁慶の出生地との伝承がある本庄である。平安末期には上西門院領長海庄とみえ、文永八年までには長海本庄と新庄に分かれていた。上西門院領は母待賢門院領を継承したものが多く、彼女が死亡する久安元年(一一四五)年までに庄園として立券されていた可能性が大きい。頼朝も平治の乱で伊豆に配流されるまでは上西門院に仕えていた。長海庄の本家であった上西門院は文治五年に死亡しているが、その現地における管理者として目代で幕府御家人である兵衞尉政綱は最適の人物であろう。弘安五年六月二八日に出雲国守護佐々木泰清が長海本庄で頓死したのも、守護と長海庄との関係を示していよう。

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