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2018年5月 7日 (月)

弁慶誕生伝説の背景1

 この問題については、現在に至るまで旧出雲国(島根県東部)内で何度も言及されてきたが、新たな論点もなく同じ事が繰り返されているのみである。なぜ松江市本庄での出生説が生まれたのかについて、述べてみたい。論点としては、弁慶が仕えた義経と出雲国の関係と本庄という場所が出雲国でどのような意味を持ったかである。
 最初の問題については、義経と頼朝に関係する出雲国内に残る文書である。いずれも後に作成されたものではあるが、一定の背景のもとに作成されている。日御碕神社文書に二通の文書が残されている、一通は摂津国一の谷の戦の直後の①元暦元年三月三日大将家(頼朝)袖判下文であり、御崎検校政近の代官である弟三郎政盛の軍功に対する感状である。ただし、一の谷の戦には多くの出雲国武士が平家方として参加しており、事実とは異なっている。二通目は②元暦二年三月二日検非違使五位尉源義経願文である。屋島の戦いと壇ノ浦の戦いの間のもので、「日御崎明神」は杵築宮の分体であるとしてその加護を求めている。三月末に平家を滅ぼした直後の四月に頼朝は義経をはじめとする東国御家人が頼朝の許可無く任官しているとして、個々の名前を挙げてこき下ろしている。その中には出雲国目代となる兵衞尉政綱も含まれているが、その多くはその後も活躍しており、これにより失脚した人物はいない。
 義経と頼朝の関係悪化についても、有名な腰越状は後世作成されたもので、その関係悪化は八月に伊予守に任官した以降であるとの説が有力になっている。義経は元暦元年八月一六日に左衛門尉に補任され、九月一八日には異母兄範頼が三河守に補任されたのと同時に五位尉となった。そして翌元暦二年正月に殿上人として院内に出仕した際に因幡国目代で守護の有力候補である東国御家人大井実春が飯垸を勤めたのである。②が「五位尉」としているのは正しいが、「日御崎明神」との表現は一四世紀後半以降に使われる表現である。『梁塵秘抄』のように聖のすみかとしての「日の御崎」(その先の海上から日が昇る)との言葉はあるが、神社は「御崎社」(杵築の神の前にいるという意味で「三前」とも表記)であった。
 以上のように、①②ともに偽文書ではあるが、海戦である壇ノ浦の戦いに赴く前の義経が願文を捧げるというのはありうる状況と考えたのであろう。益田家文書にも元暦二年六月の義経発給文書が含まれている。以前は腰越状の後のもので疑問が出されていた。文書が失われたため後に作成されたものであることは確かであり、その内容の個々の点についても検討の必要はあるが、一定の記憶に基づき再構成されたものであろう。義経は出雲・石見国に文書を出す権限を認められていたのである。

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