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2018年5月24日 (木)

三隅氏と福屋氏の滅亡1

 享禄五年(一五三二)九月二八日に三隅興兼が益田尹兼に契約状を提出している(益田家文書)。背景は不明だが、三隅郷を離れていたのを尹兼の仲介で帰郷が可能となった。この頃、俣賀氏一族の梅月氏が三隅氏の高城に長期間在番していたことを大内氏奉行人奉書で賞されているのはこれに関連するものであろう(梅月氏古文書)。享禄元年一二月二〇日に大内義興が五三才で死亡し、二二才の義隆に代替わりする中、三隅氏の行動に問題があり、大内氏の攻撃を受けて、三隅城が占領される事態となったことが分かる。興兼は尹兼の扶持を受けるとともに奉公するとして帰郷を許された。疋見・道河・丸毛・板井河を進めているが、丸毛については岡見の替と述べている。
 続いて興兼の嫡子孫次郎隆周が天文七年(一五三八)一〇月一六日に益田尹兼に対して、大内氏の裁判により一族の縁が確認されたとして、津毛・疋見・丸毛については興兼の約束を改めることはしないとしている。この時期、益田氏領伊甘郷や三隅氏領であった小石見郷に尼子氏と結ぶ福屋氏の勢力が及んでいたが、尼子氏による安芸吉田攻が失敗したことで、福屋氏は路線変更を余儀なくされた。
 天文二〇年(一五五一)九月に大内義隆が陶隆房(→晴賢)に滅ぼされたことで、石見国の状況は混沌とし、国人の対応も毛利氏派・陶氏派・尼子氏派に分かれた。福屋氏は姻戚関係にある陶氏方の小笠原氏と手を切り尼子氏と結ぼうとしたが天文二三年一一月に新宮党討滅事件が起きて尼子氏の影響力が弱まると、毛利氏と結んだ。次いで毛利氏が弘治元年(一五五五)一〇月の厳島の戦いで陶氏を滅ぼすと、陶氏方であった国人に動揺がみられたが、邑智郡の小笠原氏と迩摩郡の温泉氏は尼子氏と結んだ。
 これに対して毛利氏と結ぶ福屋氏・佐波氏との間で合戦が行われたが、一旦は弘治二年に尼子晴久が出兵して、八月末の忍原の合戦で毛利氏方を破り、石見銀山と山吹城を掌握した。これに対して毛利氏は陶晴賢が傀儡として擁立した大内義長を弘治三年三月に滅ぼして防長を掌握すると、石見国への進出を本格化させた.
 益田氏当主藤兼は陶隆房派の中心として天文二三年から二四年にかけての吉見氏・津和野城攻に参加したが、一方では三隅氏と対立し、天文二四年二月と九月には三隅氏の本拠高城や支城鐘尾城を攻撃し、三隅領を支配下に置いたと見られる。しかし陶晴賢が滅ぼされたことで、反益田氏の動きが再燃し、弘治二年六月から一〇月にかけて益田氏と三隅氏との間で合戦が行われた。弘治二年八月二二日の三隅二宮大明神への寄進状には三隅隆周の子兼忠の袖判と三隅氏家臣一〇名の名が記されており、翌三年一一月の同神社造営も兼忠が行っており、三隅氏はなお益田氏の軍門には降っていない。尼子氏が石見銀山を攻略した直後の九月三日には反毛利氏との立場で一致する尼子氏から勝利の報が益田氏に伝えられ、一一月二六日には尼子氏と益田氏の間で協力関係が結ばれたことが確認できる。

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