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2018年5月 6日 (日)

貞永二年正月の除目1

 「民経記」貞永二年(一二三三)正月二四日条によると、近衛殿の知行国播磨国と北白河院の知行国美濃国がいずれも後堀河院の分国に変更されるとの噂が流れ、翌二五日条によると実際に院分国とされ、国守(播磨は藤原家定、美濃は藤原隆盛)が補任された。近衛殿には播磨国の替わりの知行国が進められるとの噂があったが、無沙汰であった。前年秋にもあった噂が関東上洛後沙汰やみとなっていたが(八月二十三日に陸奥国と交換する形で備中国が中宮の分国となる)、最近、九条道家の御使壱岐前司行兼が関東から上洛後、其の沙汰が出てきた。この問題については、松島周一氏「寛元四年の「院分国」尾張をめぐる攻防」(「愛知県史研究」二〇号、二〇一六年)でも、寛元四年の事例の理解のため言及されているが、その必要上から一部にのみの言及に留まっているので、確認する。
 播磨国を院分国とするのは道家の使者派遣後動き出したとあるように、首謀者は朝廷随一の実力者で関東申次の役割も果たしていた九条道家であった。前年の秋の時点では西園寺公経の知行国伊予国を院分国とする動きもあったが、こちらは院分国のもとで西園寺氏の知行国が温存されたので実現したが、近衛殿(松島氏は家実とし、国司一覧は兼経とするが、後述のように後者が正しい)の播磨国の場合は、そのような配慮がなかったため、実現に至らなかった。
 正月の除目では播磨・美濃両国とも院分国となり、美濃国に替わる北白河院の分国は若狭国となり、藤原隆氏が国守となった。若狭国を知行してきた園基氏は年来治部卿平親長卿が知行してきた薩摩国を替えとして拝領し、橘重国が国守になった。次いで三〇日条によると大殿(九条道家)の分国であった土佐も院分国(当初は道家知行国で源教行が国守という除目であった)とされ、藤原家教が国守となった。これに対して前年八月に陸奥国を関東御分国としたことで中宮の分国となった備中国が近衛殿に対する配慮(播磨国の替え)とされたが、辞退して受け取らなかったという。また備後も院分国となった。

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