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2018年5月 9日 (水)

正平一二年正月日北島貞孝申状1

 表題の文書は冒頭で「当社神主職」と述べ、その末尾では造営と三月会について綸旨・国宣に任せて自分に仰せつけるよう求めているが、誰に対して出されたものであろうか。そのヒントは、「当国安来津御座時」の部分と「紀州発向之時」の部分にある。わかりやすい後者から述べると。貞和四年六月七日足利直冬書下で、紀州凶徒退治のため発向したので、祈祷懇志を抽んずるよう命ぜられて以来、今に至るまで祈祷を退転したことはないとしている。これに関係して貞和三年一二月二二日には出雲国守護代吉田厳覚が国造に対して、祈祷の御礼を述べている。また、翌貞和四年二月一八日には、厳覚が東条・吉野以下の凶徒以下の静謐を終えて京都に戻ったところ、巻数が到来したとして、北島殿に礼状を送っている。この後、四月一六日に足利直義が紀伊国凶徒退治のため、養子直冬を派遣したとして軍勢催促を行っている。実際に直冬が出陣のため東寺に陣をしいたのは五月二八日で、六月一八日に紀伊国に向けて進発した。その際に各地の寺社に祈祷を命ずる書下を出している(六月一八日宝積寺宛、前田氏所蔵文書)。
 この合戦については、三刀屋氏惣領信恵も守護京極高氏の催促状(貞和三年一一月二八日付の大野氏宛が残っている。伊藤氏の場合は同日付で直義が催促している)をうけて、子弥三郎扶直が正月一日に八幡に馳参り、二日には河内国佐々良に着到して以降の事を、守護代吉田厳覚を見知人として二月一三日に軍忠状を提出し、守護の承判を受けている。同日には三刀屋氏庶子の粟谷村一分地頭彦十郎貞助も軍忠状を提出している。同日付で香折新宮地頭飯島九郎三郎も軍忠状を提出している。戦闘では楠木正行ら南朝の激しい抵抗もあり二月九日には京極高氏の子四郎左衛門尉秀宗が和泉国水越寺で討ち死にしている(常楽記)。
 この時期の幕府関係者から杵築大社宛の文書は千家国造には残っていない。結果として残さなかった可能性もあるが、関係がありそうなのが、貞治四年一〇月一〇日国造北島資孝申状である。山名氏も幕府方に転じ、京極高氏の出雲国守護としての支配が復活したことで、国造千家孝宗が先手を打って申状を出したのに対する反論を述べている(支状)。ここでは杵築大社造営の旧記とともにはじめて差図が登場することも注目されるが、孝宗方の主張を一々述べた上での反論という形はとられていない。
 証拠として副進している具書の中に系図、造営を命ずる御教書等、祈祷を命ずる御教書と並んで細川奥州による侍所奉書とそれに関する吉田厳覚注進状があり、孝宗合戦罪科は遁れ難いとの注記が付されている。本文によると貞和二年八月に杵築大社領内で本所雑掌と孝宗が合戦をしたため、それを厳覚が幕府に注進し、侍所奉書が出されたことがわかる。動乱開始時に領家雑掌孝助と国造孝時の裁判が行われていたが、対立が続いていたことがわかる。ただし、なぜ千家方とかは不明である。両国造の和与状に依れば偶数月である八月は北島方の出仕月である。

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