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2018年5月 1日 (火)

偽文書の作成時期再論1

 以前、作成時期について検討したが、今読み直すとあまりにも問題が多いので、再度論じたい。
  領家松殿兼嗣の元では、国造側が幕府から神主に補任されたと主張することなど不可能であった。関係文書は揃っており、本家である土御門院やその母承明門院に訴えることはできても、領家の判断を変えることはできなかった。幕府の口入を得て、造営文書の所持を理由に、ようやく文永一二年正月に神主に補任されるのが精一杯であった。
 その国造家に立場を強化する新たなチャンスが来たのは、本家が亀山上皇に交代したことで、領家兼嗣が退けられたことであった。新たな領家某御房からはさっそく弘安八年には阿語・太田郷を与えられている。弘安四年三月に国造義孝が作成したのは、過去の遷宮時には必ず国造が神主を兼ねていたという歴史の偽造のみであった。
 その後、領家は三条廊御方に代わったが、そこで出雲実政が神主に復帰したため、国造泰孝がこれを幕府に訴え、裁判が行われた。これまで幕府は口入することはあったが、一歩進んで問題に関わったことになる。その最初の判断が正応五年七月九日関東御教書で出され、泰孝が御家人である上に重代として造営旧記を帯しているので、泰孝を神主に補任して造営を行わせるべきというものであった。ただし、決定権は領家にあるので、六波羅探題を通じて廊御方に申し入れた。これに対して実政が越訴を行ったが、永仁五年二月一一日に幕府が退けている。ただし問題は、この裁判と平行して元の領家兼嗣が廊御方との間で領家をめぐる裁判を行っていたことであった。
 兼嗣は嘉元三年の亀山上皇の死により、領家に返り咲いたと思われる。すると出雲真高(実政父)の関係者である孝助が雑掌となって、神主である国造家を圧迫し始めた。実政自身は過去に兼嗣への不忠により神主を解任されているので、実政の復活は不可能であり、杵築社とは無関係な中納言僧都の祗候人となり、その所領の預所となった。一方で、国造家も徳治二年一二月五日には泰孝が譲状を作成し、孝時に国造と神主並びに所領を譲っているが、間もなく亡くなったと思われ、この点も孝助側にはチャンスであった。孝時は領家による神主補任状も得ていなかったのである。こうした領家と雑掌による攻勢に対して、国造孝時が雑掌による押領を幕府に訴え延慶二年から裁判が始まった。そのテーマは神主職と杵築社領であった。先例を知らない廊御方と異なり、兼嗣のもとには永暦年間に藤原光隆を領家として杵築社領が再立券された以降の文書が残されており、神主の補任権が領家にあるのは明白であった。

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