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2018年5月12日 (土)

杵築社領の本家1

 杵築社領が安嘉門院であったことについて、何故そうなったのかという疑問が提示されるかもしれないので、承明門院領から安嘉門院領、さらにはその後の経緯を確認する。
 承明門院が正嘉元年(一二五七)に八七才で死亡した際には、孫である後嵯峨院領となる可能性もあったが、曾孫で承明門院の猶子となっていた一五才の宗尊親王に譲られたのであろう。
 建長四年(一二五二)には関東へ下って幕府将軍となった宗尊は二五才となった文永三年(一二六六)に将軍を解任された。将軍後継となった子惟康親王を置いて京都に戻り、承明門院が暮らし、父後嵯峨が育った土御門殿で暮らした。その後、宗尊は文永九年の二月騒動と父後嵯峨の死を受けて出家し、文永一一年に三三才で死亡した。後には正室近衛宰子との間に生まれた掄子女王(一二六五年生)と堀川具教の娘との間に文永九年に生まれた女子と生年不明の男子(真覚)が残されたが、掄子女王は後宇多天皇の後宮に入り、女子は土御門殿で育てられ、土御門姫君と呼ばれた。
 承明門院は後鳥羽院政前半の寵臣土御門通親の養女として、後鳥羽の後宮に入り長男となる土御門天皇を産んだ。土御門は承久の乱で父と兄弟が配流されたのをうけて自ら申し出て土佐へ配流され、後に移動した阿波国で寛喜三年(一二三一)に死亡した。杵築社領の本家は後白河院から後鳥羽院、さらには土御門院に譲られて承久の乱で一旦幕府に没取された。その後は後高倉院ではなく、土御門院の母承明門院領となった。堀川氏は通親の次男通具を祖とし、その嫡子具実に対して具教は庶子で公卿にはなっていない。杵築社領宗尊の死により安嘉門院領となった。後に土御門姫君に確実に伝わるように、後深草・亀山領とするのを避けたのだろう。ただし、安嘉門院が死亡した弘安六年(一二八三)の時点でも土御門姫君は一二才であり、当時の治天の君である亀山院領とされたのだろう。
 土御門姫は瑞子女王と呼ばれていたが、正安二年に室町院が死亡したことで、父宗尊が譲られていた室町院領の相続を主張し、訴えた。承久の乱後、治天の君となった後高倉院に後鳥羽院領が返されたが、その死後、その所領の大半は二人の娘=式乾門院と安嘉門院に譲られた。両者はそれぞれ弟である後堀河天皇の遺児室町院に所領を一期分譲り、その後は、式乾門院領は宗尊親王、安嘉門院は亀山天皇に譲られることになっていたが、宗尊は式乾門院に先立ち死亡し、式乾門院が建長三年(一二五一)に死亡すると室町院が相続した。

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