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2018年5月19日 (土)

毛利北条氏について1

 毛利北条氏については、戦国期に滅亡したことにより譲状が残っていないため、氏寺専称寺に残された文書と過去帳の情報のみがその動向を知る手がかりとなる。一方では佐橋庄南条を支配した毛利南条氏との関係が問題となる。南条氏についても最終的に文書を残したのは鵜河庄内安田条を支配した庶家であるが、その中には康応元年六月二一日に将軍足利義満が佐橋庄地頭職を安堵した下文も含まれる。問題は安堵された毛利大膳大夫入道道依とは誰かということである。佐藤進一氏はこの文書を根拠に南条氏が北条をも支配していたと解釈された。一理はあるが、本来の惣領家の文書を入手した可能性が高い。
 南条は親衡が譲られた二条と、その兄弟並びに甥が譲られた五条に分かれる。一四世紀半ばにみえる「毛利宮内入道道幸」は毛利南条氏の惣領であり、南条内石曽祢条を支配していたが、新たに鵜河庄安田条を恩賞として与えられたと主張し、庶子修理亮朝広に譲り、この一族が文書を残した。これに対して嫡子についてはその名は不明とされてきたが、田村裕氏が示した憲広が正しい。そして田村氏は道依については、従来、朝広の嫡子元豊に比定されていたのに対して、毛利親衡の子匡時に比定した。田村氏が通説に対して示された疑問については、通説の当否は別として論者には全く理解できない。
 匡時は父から佐橋庄内と安芸国吉田庄内の両方に所領を譲られていたが、田村氏は最終的には吉田庄から佐橋庄に戻ったとした。また、その根拠として 明徳五年に匡時の弟直元の子元衡の所領である麻原郷に対して違乱に及んだ「大膳大夫入道道心」に注目し、これを大膳大夫匡時の関係者だとして、道依を匡時に比定された。田村氏が通説への疑問として示された点もそうだが、その推定も成り立たないと考える。道心はその後継者ではなく匡時本人とすべきである。
 元春申状により、親衡が与えられたのは南条内七条の内、庄屋条・かんのう(加納)条の二条である。加納については地名が残り場所の特定ができるが、庄屋条については不明である。田村氏は庄屋条が南条の中心地だと推定されている。庄屋とは庄家が所在したことから付けられた可能性が高い。佐橋庄南条内の「南条」には佐橋神社があり、ここに佐橋庄を支配する庄家があった可能性は高い。

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