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2018年4月23日 (月)

正殿式と仮殿式4

 文永一二年と翌建治元年に領家が国造義孝を神主に補任した下文にみられた阿式社に準じた造営と、国造が所持する旧記に基づく造営については、文永七年正月の本殿焼失後の問題ではなく、宝治二年遷宮の本殿を造営する際に生じた問題であったことを明らかにした。宝治の本殿造営が当初は史料がないとの理由で阿式社に準じて行うことにされ、それをになっていたのは神主出雲真高であったが、国造政孝が旧記を所持することを明らかにした上で神主補任の請文を提出したため、最終的には前例に準じた造営が行われたことがわかる。
 以前、広島大学三浦正幸教授とメールで遣り取りした際に、三浦氏は八丈方六間という正殿式は寛文年間の造営時に国造家によってねつ造されたもの(先例ではなくその時点で定めた物)と言われたが、前例に基づくものと考えるのが妥当ではないか。それが中世最後の巨大神殿を造営をうけた宝治二年の正殿遷宮ではなかったか。細部の違いはあろうが、この先例に基づき寛文の正殿遷宮が行われたのではないか。国衙・杵築社政所・国造家に規模についての記録は全くないとは考えられず、それがあるので、各時代の政治権力に正式な規模の造営を求めてきたのではないか。それがながらく実現しなかったために、はくをつけて三二丈、一六丈という空想的規模の神殿があったとの伝承が形成されたのであろう。
 前述のように、宝治の遷宮関係史料を写した北島家譜では、大社町史の掲載部分(二四一号史料)の前にそれが宝治の造営のものであることが明記され、大日本史料では正確に引用されている。町史でその部分がなぜ省略されたかは不明である。家譜も書き継がれる過程で原文書の修正(建長元年の注進状では目代源右衛門入道宝蓮について、仏教的要素をである「入道宝蓮」の部分が消され、北島家譜でもその部分が不自然な形の空白となっている)に伴って修正された可能性があり、北島家譜の記載内容の検討も必要であるが、現時点での見解を述べた。建築史研究者の見解について、とりあえず『出雲大社境内遺跡』(二〇〇四)と『出雲大社の建築考古学』(二〇一〇)で確認したが、様々な根拠に基づき様々な説が述べられており、現在の自分は建築史の専門家のレベルからどの説を支持するところまでは至っていない。発掘された遺構は現時点では宝治二年遷宮の本殿である可能性が高いのではないかというぐらいである。いずれにせよ文献史学のこれまでの研究、さらには現時点の研究が不十分であったことが無用な混乱を生んだ原因であったことは間違いなく、それをどこまで確認できるのかということですべて明白な根拠を示してブログの記事を書いている。現在は「中世前期出雲大社史の再検討」(二〇〇四)の最新バージョン(二〇一八版)を発表する準備をしている。

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