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2018年4月 8日 (日)

天仁年間の杵築社仮殿造営1

 出雲守藤原顕頼の在任中に行われた天永三年(一一一二)の正殿遷宮に先立つ仮殿造営と遷宮の時期について検討する。というのはこれも異なる時期が関係史料に記されている。遷宮旧記に基づけば天仁元年(一一〇八)一一月一九日に仮殿遷宮が行われたことになるが、承久二年(一二二〇)の注進状には天仁二年六月に仮殿遷宮が行われたと記され、弘安四年の国造義孝申状には、天仁二年三月五日に顛倒し、同年一一月一五日に仮殿遷宮がなされたとされている。この問題を検討した井上寛司氏は遷宮旧記の記述を採用しているが、その根拠については述べられていない。
 このような違いが生まれた原因として、遷宮旧記でも天仁元年一一月以降の状況がしばらく記されず、事業が停滞したことがあった。それが天仁三年七月四日に杵築浦に大量の巨木が流れ着いたことで、造営事業が進んだことが読み取れる。旧記によれば仮殿造営後1年半以上にわたって正殿造営事業が停滞していたことになる。前回康平・治暦の造営から一国平均役が付加されるようになり、財政的問題は小さかったと思われ、造営のための材木の不足が原因であったと思われる。そして時間の経過により一旦造営した仮殿が破損などしたため、再度、仮殿が造営し直され、再びそこに御神体が移されたのであろう。
 義孝申状はこの事態を説明するためあのような解釈をしたが、事実に基づくものではなかった。現時点では、最初の仮殿遷宮が天仁元年一一月に行われたが、正殿造営のめどが立たない中、仮殿が破損し、承久二年の注進状が記す天仁二年六月に二度目の仮殿遷宮が行われたと考える。次いで、材木調達のめどがたち、実際に天仁三年七月以降に海路で材木がもたらされた。
 出雲守藤原光隆在任中に行われた久安元年(一一四五)の遷宮では、康治元年(一一四二)一一月の仮殿遷宮終了後、翌康治元年二月八日に光隆が政府に解状を提出し、それを認めたのが三月一九日の官宣旨であった。また、光隆の解状は仮殿遷宮に先だって出された八月一八日の在庁官人野解状をうけてのものであった。その解状の中で杵築社造営は庄園も一同に其の勤めを致してきたとして、最近の例として、康平五年と天仁三年の例を挙げている。仮殿遷宮の完了を受けて、造営に協力することを命じた官宣旨が出されたのがこの二つの年であった。一旦は天仁元年一一月に仮殿遷宮が完了したにもかかわらず、造営が停滞して、二年後にようやく政府の命令が出されたのである。これに対して康平年間は仮殿遷宮から正殿造営にスムーズに移行した。

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