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2018年4月20日 (金)

史料の優先順位

 ようやく山岸常人氏「中世杵築大社本殿造営の実態と背景」(仏教芸術278、2005)を入手し、ざっと読んだところである。同時に松薗斉氏「中世神社の記録について-「日記の家の視点から」」(「史淵」127、1990)も国会図書館から複写を取り寄せて、とりあえず関係部分は目を通した。つくづく文系・理系を越えた幅広いバックボーンがないと杵築社造営の問題は解けないと思う。理系のごく一部の分野を除けば、研究には文系・理系両方の基盤が必要である。ただし、歴史・考古学者の中には理系のセンスが十分ではない人がままみられる(本来は文系と理系に分けることそのものがナンセンス)。理系の研究者についてはよくわからないが、杵築社造営をめぐる問題をみる限りは文系の素養(具体的には文書を通して得られる政治史の理解)が十分ではないように思われる。山岸氏の検討もその一年前に発表した拙稿「中世前期出雲大社史の再検討」(ただし、現時点ではより理解を深めた点が多々ある)を踏まえていれば、ずっとよいものになったと思われる。文献史学側の成果が不十分なままなされてしまったのである。とはいえ、山岸氏自身も通説の個々の内容を再検討しなければ、解決に近づくことはできない。
 山岸氏の論文ではいくつかの表が作成され分析のてがかりとされているが、その典拠としてAからHまでの記号がふられた八点の史料があり、うち六点が中世、二点が近世の史料である。それぞれの記載内容を比較検討することそのものには問題ないが、表題のように関係史料には優先順位があり、それを踏まえて分析しなければならない。宝治の遷宮までにかぎればABCの三点で十分である。
 Cを作成した時点でその元となる史料はあったのだろうが、弘安四年に作成した国造義孝が、ABと矛盾する点について解釈を加えて作成したのがCである(大社町史二三七に続くのが三一四であるが、この明白な点すら二〇〇四年に拙稿を発表するまで誰も気づかず)。Cの記述内容は他の史料で検討しない限り使えない。国造が杵築社遷宮時には神主も兼任していたとの主張は事実に基づかないものである。GはCに基づき、その後のデータを付け加えて作成されたものである。ただし、写す際に誤りがあり(仮殿造営の後に顛倒が記されていることに疑問を持ち訂正した可能性も)、Cが記す嘉禎元年の顛倒を嘉禄元年の事としてしまっている。CとGの間に存在した史料もあったであろうが、残されていない。Dは信頼性が低く、EはCを要約しつつ、書き継いだもの、Fは独自の記載があり注目されるが、信頼性の低い記事を含んでいる。間違ってもDEFGを根拠としてABCの内容を否定してはならない。
 山岸氏が発掘された三本柱を束ねた遺構について建久元年のものと主張している点と毎回本殿の規模は違っていたと説いている点は初めて知ったが、論者により違いがあるようなので、建築史の研究者の論文で確認したい。当方も建築学の素養はないが、調べつつ学習し検討する意欲は持ち合わせている。ただし、学会誌に発表されたものが多く、閲覧するには建築学会の会員となるか、1本あたり一〇〇〇円ほど払うかのいずれかが必要であり、とりあえずは浅川滋男氏編『出雲大社の建築考古学』(同成社)で確認してみたい。
 付記 山岸氏が論文であげていた松岡高弘・土田充義氏「出雲大社における中世の仮殿造について」(1988)については、ネットでPDFが閲覧でき、確認した。『日本建築学会計画系論文報告集』の1993年以前のものは公開されているが、それ以降の論文は前述のとおり有料である。

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