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2018年4月27日 (金)

東三郎殿御相論1

 暦応四年六月九日、佐草禅光は起請文を作成した。その原因は東三郎殿に御相論が出来し、不審を持たれる可能性があるので、疑いを晴らすためであった。東殿に忠を致し、今の国造に不忠となる事はしないことを誓っている。御内を出るようなことがあってもこの旨を翻すことは無いとしている。
 問題は東三郎とは誰であり、不忠とは何であったのかである。井上寛司氏は国造清孝であり、相論とは国造職をめぐる清孝・孝宗と貞孝方の確執であるとされた。問題は国造自身が東氏と称したり、康永二年六月八日国造清孝知行配分目録で、自らの知行分を「庶子分」とするのはおかしいとの批判を念頭におきつつも、その他の案が考えがたいとの理由で、推定が妥当であるとされた。この内、知行目録については時期(すでに清孝は死亡している)、署名の形式(孝宗への譲状では国造大社神主出雲宿祢清孝としているのに対して国造清孝という署名はおかしい)との理由で、国造をめぐる孝宗と貞孝の相論が開始された後に作成された偽文書であるとの説を提示した。
 そこで本論について考え直してみると、相論とは清孝跡をめぐる対立ではなく、孝時流の清孝・貞孝と東三郎=彦三郎孝景の対立であるとの説が妥当であるとの結論に達した。建武二年一一月二日の譲状の中で国造孝時は、自らの跡を三郎清孝に一期分として譲り、その後はあかこまろ(六郎貞孝)が継承して尼覚日の命に従うべきことを述べている。これに対して一三日後の一五日には孝時は置文を作成し、尼覚日に先立つので、親である泰孝譲状に任せて、国造職や所領については覚日の計らいで、いずれの子孫にでも良いので与えられることを了解している。
 井上氏はこの孝時の譲状と置文には矛盾があるとして、譲状には問題があり、これをもって貞孝が孝時から国造職などを直接相伝した証拠となすことはできないと結論付けられた。これに対して「中世前期出雲大社史の再検討」の中では、譲状と置文はともに正しいもので、そうでなければ清孝が孝宗に国造職を譲ったことに対して貞孝が異論を述べ、それが一定以上の人々の支持を得て、孝宗と貞孝の相論が長期化し、守護による調停が行われることはなかったことを述べた。

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