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2018年4月29日 (日)

頼朝の下文二通の復元2

 そうした目で内蔵資忠への発給文書を見ると、ここでは日付こそ二日違いであるが、やはり二種類の下文が発給されている。それも七月の時点では将軍家政所下文ではなく、前右大将家政所下文である。この二種類の文書を復元しようとして、はたと悩んでしまった。袖判下文から政所下文への切り替え期であり、鎌倉遺文の建久年間の頼朝文書を見つつ、さてどうしたものかと、なかなか前に進めなかったのである。それでついついパソコンの画面の前でうたた寝をしてしまい、しばしして目覚めた際にも途方にくれてしまった。
 それが、ようやく納得のできる解答を発見できたのである。①には「右大将家」とあるように、政所下文であった。それも「前」こそ欠落しているが将軍家政所下文ではないのである。これに対して②は袖判下文であった。普通の地頭補任状と違い、領家の補任状を安堵するものなので簡単では無いが、引用部分は正確だと確信した。①は杵築社神官等に対して下され、より主従関係を反映した②は内蔵資忠に対して下されたのである。九月一二日付の二通の文書が残っている小山氏のケースも、政所下文は下野国日向野郷住人に対して下されている。実際には所領毎に出されたのだが、日向野郷地頭職のみ(吾妻鏡に別の写しが一通あり)が残っている。これに対して袖判下文は下野国左衛門尉朝政に下され、政所下文の旨に任せて所々地頭職を領掌せよとしている。
 これに対して、内蔵資忠宛の②は政所下文ではなく、領家下文に依りとあるが、これは補任権が領家にあるからであろう。二通の申状に引用された下文については、当初井上寛司氏が国造家の主張のように偽文書だとされたが、二〇〇四年の論文ではじめてこれを正しいものとしたのである。とはいえ、復元の問題から100%とは言えないところがあったが、ようやく100%正しい文書であるとの確信を持った。以下に①②の復元案を示す。日付の違いはやはり、資忠が政所下文のみではなく、袖判下文を求めたからであろう。当然、千葉介常胤の事例より早い前右大将家の時点のものであり、大変貴重なものである(復元案に続く)。

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