koewokiku(HPへ)

« 東三郎殿御相論2 | トップページ | 国造清孝譲状について2 »

2018年4月28日 (土)

国造清孝譲状について1

 康永二年三月二八日国造清孝譲状について再検討する。泰孝と孝時の譲状と置文についてみたが、それと比べて清孝譲状はきわめて簡単である。一応、孝時流で清孝の後継者は貞孝だということは決まっていたが、それを覆して孝宗に譲ったことだけではなく、もうひとつの問題として、孝景流を含めて尼覚日が後継者を決定してはじめて、国造・神主が決まるのに、それについて何の言及もないのである。清孝が貞孝ではなく孝宗に譲っただけでは問題は解決しないのである。
 関係文書を確認すると、「康永二」の追記のある三月三日左衛門尉義政・左衛門尉親清挙状では「国造孝宗」と記しており、これ以前に清孝から孝宗への譲与(それが正当がどうかは別の問題である)は行われていたはずである。それに基づき、孝宗が社領一二郷と多祢郷内坂本村等について、具書とともに守護方に安堵を求め、それを報告したのがこの挙状である。そして三月一六日には出雲孝景が和与状を作成し、領家との訴訟のため京都に持って行った文書について説明するとともに、引き渡しを約束している。当然、この相手も孝宗である。関係文書を①孝景和与状(大社四四六)、②孝景起請文(大社四四七)、③京都質券文書目録(大社四四八)として内容を分析する(文書名は適切とおもうものに修正)。
 ①では和与の内容として大庭田尻保地頭職、遷宮旧記等神主職相続に関する文書等を引き渡すことを述べている。②ではその文書の詳細を説明している。最初に泰孝から孝時への譲状の正文は焼失したと聞いていたが、それ(?)から提供された案文を写して参らせたとする。これが千家文書に残されている写(大社四四九)であるが、その裏書には「それより給下候案文ニまかせてかきて候、正文ハやけて候よりうけ給り候」とした上で、孝宗が三月一六日付で裏を封じている。裏封とはその後の改変を防ぐための行為であるが、孝景と孝宗が述べているのは真逆である。孝景が述べているのが真実であり、孝宗から提供された写をもとに正文の写と称するものを作成したのであろう。そうみせかけるために孝宗が裏を封じたのであろう。ただし、文書の内容は北島家文書に残されている正文との違いはない。

« 東三郎殿御相論2 | トップページ | 国造清孝譲状について2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 国造清孝譲状について1:

« 東三郎殿御相論2 | トップページ | 国造清孝譲状について2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ