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2018年4月15日 (日)

建久二年八月日出雲国在庁官人等解

 建久二年七月(以下解状A)の解状は神主職をめぐる対立に関するものであったが、八月二日解状(解状B)はどのような背景で出されたものであろうか。最初には孝房先祖兼忠已前の文書が焼失したと述べ、本文によると久安五年一一月二八日夜の火災により焼失したと述べている。焼失した一三通の国造補任状中で直近のものは兼忠を補任した天承元年(一一三一)四月三日庁宣だとする。
 久安元年(一一四五)には杵築社遷宮が行われ、次いでその翌年に杵築社領の立券が行われた可能性が高いことを指摘した。この解状からわかるのは、国造をめぐっても対立が生じていたことである。出雲宿祢一族は出雲国衙の有力在庁官人であり、その中に国造を務める家があった。ただしそれは固定しておらず、国造関係の家の間で国造をめぐる訴訟も少なからずあったと思われる。そうした中、「兼」をその名に付ける家に代わって新たに国造となったのが孝房の父宗孝であった。宗孝は建久五年(一一九四)の在庁官人等解状(解状C)では「出雲氏である上に兼忠の嫡子」だとされるが、この解状は後世に作成されたもので、この部分の記述は事実ではない可能性が大きい。何より、解状Bでは孝房からみて「伯父兼忠」と記されており、兼忠は孝房の父ないし母の兄ということになる。また解状Cから孝房と石王冠者の間で国造をめぐる対立があったことがわかる。
 解状Aで延久四年に国造に補任された頼兼(「兼」を名前に付けた最初の人)には嫡子宗房があり国造を継承したが、在職一年で死亡し、その子兼家がまだ幼少であったので、弟兼宗が国造となった。兼宗の嫡子として国造となったのが兼忠であった。次いで国造となった宗孝については兼忠との関係が不明であることはすでに述べた通りである。一方、兼忠は国造として初めて神主に補任されているが、補任権は領家が握っており、宗孝が神主を継承したかどうかは不明である。文治二年(一一八六)五月に神主に補任された内蔵資忠の前任者が孝房であったことは確認できる。建武三年(一一三六)の国造孝時申状土代の中では、西郷(=出西郷)は孝時先祖開発の地だと述べており、経済力を背景に新たに神主に補任されたのが宗孝であり、次いで国造兼経の死とその子石王冠者が幼少であったために、宗孝が国造を兼ねたのではないか。
 これに対して、成長した石王冠者側が国造補任を要求し、宗孝の子孝房との間で相論となったのであろう。それに対抗するため、孝房は粉失状(解状B)を作成し、国造の正統な後継者であることを主張したのだろう。ただし、解状Cは偽文書であり、裁判の判決も残されておらず、結果は不明である。国造の系図によると石王冠者は須佐社の祭祀者になったとする。
 以上、「孝」系の祖宗孝については不明な点が多いが、解状Bの背景から、その問題解決の手がかりを得ることができた。出雲宿祢には在庁官人を務める一流(内蔵氏もその一つ)がおり、神主をめぐっては国造との間で激しい対立が展開していく。出雲宿祢には国造家と呼べる一流があったが、代を重ねることに関係者は増加し、その内部で国造をめぐる対立があった。さらには非国造系出雲宿祢との間で神主をめぐる対立があり、その最終的勝利者となった宗孝系の人々は国造兼神主について「万世一系」的な神話を後に作り上げていく。それが事実ではなかったことは言うまでもない。

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