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2018年4月12日 (木)

杵築社領の立券5

  建久二年七月日出雲国在庁官人等解には、治暦三年二月一日の正殿遷宮では国造孝房の曾祖父国造国経が御神体を奉懐し、以下永久二年六月一八日(これが旧記を筆写する際に誤記したため生じた誤解で、正しくは天永三年六月一八日)の遷宮では祖父国造兼宗、久安元年一一月二四日の遷宮では伯父国造兼忠が、建久元年六月二九日(この日時についても問題がある)の遷宮では国造孝房本人が奉懐したと記されている。これはあくまでも祭祀を担う国造として役割を果たしただけであり、神主を相伝した証拠にはならない。、また国守が所領を寄進した相手は杵築社であり、国造ではない。
 これに続いて、ライバル内蔵資忠の父忠光が讃岐(崇徳)院宣と号して謀計をたくらみ、社務を押領したのに対して、国造兼忠が上洛を企て朝廷に訴えたところ、訴えは聞き入れられ、謀計であることは隠れないとして、使庁奉博士判官兼重に付けて看督長・下部等が下された。忠光の身を拘束しようとしたところ、神殿下の運古屋の萱に放火を企てたため神殿が焼失し、忠光は逃亡したことを述べ、其の子孫は永く停止すべしとの命令が出されたと孝房側は主張する。忠光の子である資忠が神主を望むのは濫望であり、謂われがないとして、却下を求めている。
 ただ、これは国造側の主張であり、在庁官人は国造側が作成した解状に署判したのみであろう。国造兼忠の時代の国造関係者は「兼」をその名に付けているが、兼忠が、それとともに内蔵忠光と同じ「忠」の字を付けていることも注目される。忠光の影響下にあったことを示している。解状を読むと、忠光の企ては未然に防止されたかに解釈できるが、実際にはこれまで述べたように、久安二年頃に日野実光-資憲父子と藤原清隆-光隆父子の支持のもと、杵築社領の寄進・立券が行われた。その際には国司が寄進した所領を核としながら、それに有力在庁官人等が開発の中心となった周辺の公領を併せて領域的庄園が成立し、その現地の最高責任者が神主に補任された忠光であった。そして、後者の所領は別納の地とされ、神主ではなく関係者が税を直接庄園領主に納めた。
 このような状況に大きな変化を与えたのが保元の乱で、敗北した崇徳院は讃岐国に配流され讃岐院と呼ばれた。讃岐に同行したのは重仁親王の母兵衛佐局と一部の側近であり、長寛二年に配流先で死亡した際も罪人として扱われ、国司が葬儀を行ったのみであった。それが寿永三年になってその祟りを緩和・除霊するため崇徳と贈名された。都に崇徳院の廟と御影堂が建立され、後には粟田宮と呼ばれた。

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