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2018年4月23日 (月)

正殿式と仮殿式3

 正殿造営開始から遷宮までの期間についても確認すると、治暦三年(一〇六七)二月一日の正殿遷宮は康平五年(一〇六二)に正殿造営が開始されており、4年半程度である。天永三年(一一一二)六月の正殿遷宮は、天仁元年(一一〇八)一〇月に杣山に入り採木がされたことで始まったが、必要な材木の確保で中断し、天仁三年(一一一〇)七月に因幡国から材木を提供されたことで本格化した。採木開始からは四年弱、材木確保からは二年である。この造営について康治二年の官宣旨では三ヶ年で造畢と述べている。それが、旧記の写し間違いに気づかず、永久二年(一一一四)六月に正殿遷宮が行われたとの誤った解釈がなされていた。この場合だと材木提供から四年となり、明らかに官宣旨と矛盾するにもかかわらず疑問を持つこともなく放置されてきたのである。康治二年の官宣旨からは天仁三年に造営の官宣旨が出たことも確認出来る。
 久安元年(一一四五)一一月二六日に遷宮が完了した事例では、康平元年(一一四二)一一月の仮殿遷宮完了直後の一二月から採木が開始されるが、実際は翌年正月に木作始日神事が行われ、七月二五日に三前山からの採木の神願が行われた後の二八日から入山・採木が開始された。この日から遷宮終了までの期間は二年半弱である。他国から材木の提供を受けたかどうかは不明であるが、前回の寄木に際して記された神のお告げとは、出雲国内での材木確保が困難なため、他国からの提供を定め、そのトップバッターが因幡国であったことを示すものであろう。造営がスムーズの行われている事から、他国から材木が提供された可能性が大きい。
 建久元年の遷宮については、翌年七月の出雲国在庁官人等解では去年六月二九日とするのに対して、承久二年に杵築社政所が報告した文書では一〇月一八日と記している。両方の史料的価値に基づけば、後者が正しいと思われる。建久元年正月の時点で、神主内蔵資忠が幕府を訪れていることが、後白河院サイドの批判を受け、資忠が急遽出雲国に帰っている。この後、神主が遷宮を前に国造孝綱に交代した可能性も高く、六月二九日の時点で遷宮を終了するのは困難な状況にあった。解状作成のわずか一年前の事ではないかとの意見があろうが、解状は政治的文書であり、そこに記された内容は他の史料で検証しないと使うことはできない。旧記の末尾には文治六年に覆勘宣旨が出されたことと、建久元年への改元(四月一一日)のみを記している。天永三年六月の遷宮では前年一〇月二二日付で覆勘使が派遣されている。久安元年一一月の遷宮では、一〇月四日に覆勘宣旨が出されている(ただしこの年は閏一〇月あり)。覆勘宣旨の時期のみではいずれか決める根拠に欠ける。

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