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2018年4月 9日 (月)

美福門院の院分国

 この問題は五味文彦氏が初めて本格的に論じたもので、氏は分国主である美福門院のもとで国守を勤めた人物として、藤原俊盛、藤原親忠、藤原隆信、藤原実清、藤原長明、藤原隆輔、藤原季能を、分国となったことがある国として、備後、丹後、安房、越前、摂津、筑前、若狭、讃岐、筑前、周防をあげた。これに対して「隠岐守藤原信盛」の項で、信盛と藤原重家の二名と隠岐国、上野国を追加した。このうち、重家について検討を加えたい。
 既に述べたように重家は家保の兄弟顕輔の子で、家成の従兄弟になる。美福門院もまた家保の兄長実の子で従姉妹であった。重家は家成の娘を妻とし、美福門院の死後は二条天皇の側近として活動している。重家が初めて国守となったのは八才であった保延元年(一一三五)の周防守であった。父顕輔は白河院の勘気を蒙って昇進がストップしたが、白河院の死により、藤原忠通の娘聖子が崇徳天皇の中宮となった際に中宮亮に補任されて復活し、保延三年に従三位に除せられて公卿となった。年齢は不明だが、久寿二年(一一五五)に死亡している。
 五味氏が最も早い時期の美福門院分国としてあげたのは保延二年一月の備後国で、俊盛が国守に起用されている。美福門院が鳥羽院の寵愛を受けるようになるのが長承三年(一一三四)、翌保延元年一二月に内親王を産み、保延二年四月に従三位に除せられている。院分国の定義も形式と実質があり、美福門院という院号を与えられたのは久安五年(一一四八)八月である。備後守補任も三位となる以前であり、寵愛を受け始めた時点で関係者である重家が周防守に補任されたと考えても不自然ではなかろう。ただし、父顕輔が知行国主であった可能性は残されている。周防国そのものは後には後白河院の分国となるような豊かな国である。ちなみに周防守重家の後任は藤原成頼で、五味氏は父顕頼が知行国主であったと評価している。
 重家は天養元年正月の除目で周防守から筑前守に遷任し、久安五年の二月か三月に摂津守であった親忠と入れ替わっている。五味氏は親忠の摂津守と筑前守は美福門院の院分国下であったと評価している。その後、重家は仁平二年二月に隠岐守から遷任して一年たらずの藤原信盛の死を受け、その跡である上野守に仁平三年四月に遷任し、応保元年正月の除目で、若狭守隆信と入れ替わっている(ただしこの時点では美福門院は死亡)。以上の重家の経歴をみれば、美福門院分国下の国守であったことは確実で、信盛が隠岐守と上野守であった時点でも両国は院分国であったことが証明されたことになる。

 

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