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2018年4月 5日 (木)

成勝寺領寄進時の国司1

 源頼朝は文治二年(一一八六)六月二九日書状で吉田経房に成勝寺興行を急ぐことを要請し、そうでなければ破損・大破すること、修復すれば天下静謐の祈りとなることを述べている。崇徳の除霊もあろうが、頼朝が待賢門院系の人々との間に深い関係を持っていたことがその背景にあった。
 丹波国からは福貴御園に続いて久安元年(一一四五)一二月には池上寺が阿闍梨寛季により寄進されている。寛季についてはその系譜上の位置づけは不明であるが、二ヶ所が寄進された時点の丹波守を確認する。その前提として確認すべきは、従来、崇徳は白河院の子であるとして、鳥羽院・美福門院と崇徳院・母待賢門院の関係を対立的にとらえる説が有力であったが、『古事談』の記述には根拠がなく、少なくとも鳥羽院と崇徳院の対立が生まれるのは近衛天皇の死後の後継者決定からであることが佐伯氏の研究により明らかにされていることを確認しておく。
 元永元年(一一一八)から保安二年(一一二一)にかけては藤原家保が丹波守であった。その室は崇徳乳母であり。佐伯氏によれば、白河院は家保の子家成を崇徳に仕えさせて将来の布石としたが、白河院の死亡により、家成は鳥羽・美福門院の近臣とされたという。その後任として保安四年まで丹波守であったのは待賢門院政所別当であった藤原清隆である、次いで前述の顕頼、そして待賢門院の甥西園寺公通と続く。その後任で保延元年から三年(一一三七)にかけて現任が確認できるのは持明院通基である。通基の室は待賢門院官女、上西門院乳母で、その娘が西園寺公通の嫡子実宗の母となっている。しばらく史料を欠くが康治元年(一一四二)に丹波守に現任していることが確認できる藤原公信は待賢門院の従兄弟実信の子である。
 次いで康治二年の現任が確認できる藤原為忠は歌人として知られるが、その室は待賢門院女房であり、その娘はこれまた待賢門院別当であった平忠盛の室となっている。さらに天養元年(一一四四)一二月三〇日に丹波守に補任された藤原維方は顕頼の子であったが、しだいに美福門院との関係を深めていく(為忠については保延二年に死亡し、惟方は同時期に丹後守であり、ともに誤りであった)。待賢門院は久安元年八月に死亡したが、久安四年正月二八日に丹後守に補任され、翌年八月に没するまで務めた藤原通重は通基の子で、その室は待賢門院の甥徳大寺公能の娘であった。その後任藤原成兼は待賢門院の甥であった。丹波国は一時期、待賢門院の分国であったとすべきであろう。

 

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