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2018年4月18日 (水)

出雲国在庁官人平朝臣

 承久の乱後の出雲国在庁官人については、建長元年六月日杵築社遷宮等注進状に目代と知に署判を加えている七名(在国司勝部、庁事勝部宿祢二名、藤原朝臣二名、平朝臣二名)がその有力者であったことが知られる。承久の乱で国衙が大打撃を受けたため、貞永元年九月日出雲国留守所下文に目代とともに署判しているのは在国司一名、庁事三名にとどまっている(庁事二名には花押が無い)。そうした中で新たに登場してきたのが平朝臣である。
 平氏といえば、建保二年八月日土御門院庁下文に登場する平忠光がいる。国造孝綱の子孝忠は平忠光の孫であると記されており、孝綱が年貢千石を納入する点についは忠光が保証人として請文に加判を加えている。その経済力がうかがわれる。
 一方、注進状には宝物である御剣一本を持つ役人として左衛門尉平有康の名が見えている。文永四年七月五日に父後嵯峨院に代わって後深草院が行幸しているが、それに供奉した「御後官人」として六位尉平有康がみえる(『民経記』)。次いで同年十一月の除目では従五位下に除されている。注進状に記された遷宮の二〇年の記事であるが、同一人物である可能性がある。後嵯峨院北面暦名の文永六年分には従五位下として「有康 大夫尉 肥前守」がみえ、これは文永四年の平有康と同一人物であろう。
 注進状以前の史料としては、 貞応三年の注記を持つ六月一一日領家藤原雅隆御教書の奏者として左兵衛尉有康がみえ、大社神主に権検校真高が料田を沙汰することを認めるよう命じている。翌嘉禄元年の注記を持つ七月一九日領家家隆御教書では沙弥昌達が奉じて、平右兵衞尉に対して、権検校の問題の処理を命じている。嘉禄二年に比定される八月二三日領家家隆御教書は沙弥昌達が奉じて、故殿(雅隆)の下文に任せて料田として開発荒野を引き募るよう権検校に対して命じている。七月二七日に領家家隆袖判下文により権検校真高に所識を安堵しており、それを施行したものであった。
 命令系統は、領家(雅隆・家隆)→昌達→平有康→大社神主・権検校であったと思われ、平兵衞尉有康は杵築社領預所として、都と京都を行き来する存在であった。この右兵衞尉有康が昇進して左衛門尉に補せられることは自然であり、文暦二年九月日領家藤原家隆袖判下文には奏者預所左衛門尉平が署判を加えている。有康が杵築社支配の経験を買われて出雲国衙の役人に補任された可能性がある。有康は北面系の人物であり、国衙役人への起用は仁治三年に即位した後嵯峨天皇との関係も背景にあったのではないか。この有康の関係者が出雲国衙の庁事平朝臣ではないか。推測に推測を重ねているが、一つの可能性として提示した。

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