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2018年4月26日 (木)

横田庄と須佐郷

 この二つの所領に共通するのは石清水八幡宮との関係である。横田庄は石清水八幡宮の別宮が勧請された平安末期には八幡宮領となった。治承・寿永の乱で橫田兵衞尉が平家方として一の谷合戦に参加したためその跡は没収され、同族である勝部宿祢一族の三処氏が庄司となった。その後、後鳥羽-実朝の関係の中地頭となったが、承久の乱では生き延びた。一方、須佐郷は鎌倉初期の郷司が国造出雲宿祢の同族の人物であったが、承久の乱後は東国御家人が地頭となった。
 横田庄地頭三処氏は長綱が地頭の時代に横田庄の地頭請を実現したが、長綱が死亡して東国御家人土屋氏出身と思われる後家が地頭となると、年貢の未進が増加し、石清水八幡宮が幕府に度々訴えた。後家はこのピンチを乗り越えるため、六波羅探題となり、伯耆国守護でもあった北条時輔に地頭職を寄進し、自らは地頭代となった。一方、文永八年の須佐郷地頭は相模殿=時輔の弟で連署に就任していた北条時宗であった。
 文永9年2月、時宗は京都の兄時輔を襲わせ、これを殺害した。このため、時輔の母妙音が地頭となったが、実質的には幕府関係者が支配を担っていた。三処後家は横田庄に続いて三処郷を妙音に寄進したと思われるが、石清水八幡宮は地頭による年貢未進の追求をやめず、後任が他人でも納入を求めるが、新地頭は前任の時輔の母であるとして未進の納入は当然だとした。そうした中、地頭代であった三処後家とその息子は解任され、没落してしまった。そして妙音の死後、横田庄地頭職は正和四年には鶴岡八幡宮造営料所、翌年には六波羅探題北方料所に充てられ、文保元年には内裏供御料所として寄進され、西園寺実兼が管理した。
 しかし、元弘三年に鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇が地頭方を庄園領主である石清水八幡宮に寄進したが、間もなく鎌倉末期の内裏供御料所に戻された。これに対して、得宗領であった須佐郷は、建武政権に没収されたと思われるが、どう処理されたかは不明である。そして建武4年12月一二日に足利尊氏によって須佐郷地頭職が石清水八幡宮に寄進された。調度、横田庄地頭職が内裏供御御料所に寄進された埋め合わせのように。
 その後、石清水八幡宮と横田庄の関係をうかがわせる史料は確認できない。明徳の乱の原因となったのは天皇領である横田庄押領であった。これに対して山名時義と満幸は横田庄にどのような権益を有したのであろうか。室町期の横田庄を支配した三沢氏についても同様の質問が投げかけられる。一方、遅れて石清水八幡宮領となった須佐郷の一角は近世においても八幡宮領として続いていく。室町幕府下では須佐郷が石清水八幡宮領となり、横田庄は八幡宮との関係が消滅したのではないか。半済令などの結果、横田庄は天皇家領となり、地頭分を武士が支配し、須佐郷は石清水庄園領主となり、これまた地頭分を武士が支配したのではないか。そう考えないとその後の状況が理解できないので、敢えてこのような解釈を提示した。             

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