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2018年4月23日 (月)

正殿式と仮殿式2

 安元元年の仮殿遷宮が誤りであり、実際には治承二年一一月に仮殿遷宮が行われたことは前述の通り。承安四年の除目で後白河院の側近藤原能盛が出雲守に補任され院分国となったのに押し出される形で、藤原朝方・朝定父子は石見国司へ遷任した。三年後の治承元年正月に後白河院の分国が周防国に替わった関係で、朝方・朝定父子が出雲国司に復帰した。この朝経が養和元年に出雲国司を重任したのは治承二年一一月の杵築社の仮殿遷宮を経て正殿造営が開始されたためであったが、朝経は寿永二年に死亡したため、藤原清長が急場をしのぐ形で短期間出雲守を務めた後に、朝方の子朝経が出雲守に補任され、正殿造営が続いた。いずれにせよ、仮殿造営はこれも短期間で終了したと思われる。
 治暦三年の正殿遷宮に関しては康平五年四月二二日に仮殿遷宮が行われた。これをうけて康平五年中に正殿造営に関する宣旨が出されたことは康治二年三月一九日官宣旨によりわかるが、仮殿造営に要した期間は不明である。
 嘉禄三年七月の仮殿造営については嘉禄二年三月一九日の木作始日神事次第から開始されているが、実際の作業は一〇月二日御材木引進人夫徴下事から本格化し、翌年七月の遷宮で終了している。嘉禄二年八月までは神主による権神主出雲真高への圧迫が続き、真高の訴えを受けて領家藤原家隆が神主(国造孝綱が弟政孝)を一旦は更迭し、嘉禄二年七月に請文を提出した政孝が領家から神主に補任された可能性が大きい。国造政孝は本家承明門院(土御門院の母)に訴えて、神主に補任することを命じた承明門院御教書が出されているが、補任権は領家家隆が有しており、その効果については不明である。仮殿造営が本格化するのが一〇月からとなったのもそのためであろう。実質的造営期間は九ヶ月弱である。
 以上、仮殿造営に必要な期間をみたが、準備を除いた狭義の造営は一月程度で終了するものであり、最低三~四年は必要な正殿造営とはまったくの別物である。仮殿は三~四年前後の使用に対して、正殿は三〇年前後の使用に耐えるだけの物でなければならなかった。当然、仮殿と正殿の規模に関しては前回の記録に基づき決定されるため、基準があったことは間違いない。

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