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2018年4月29日 (日)

杵築社領家廊御方について2

 一方、兼良親王は生没年代が不明であるが、亀山上皇の第二皇子である後宇多上皇が文永四年(一二六七)の生まれで、第一四皇子でその膨大な庄園群を譲られた恒明親王が乾元二年(一三〇三)の生まれであることからすると、比定は可能である。ただし、廊御方の養父花山院通雅は建治二年(一二七六)に四五才で死亡し、兄の早世によりその後継者となった子の家教も永仁五年(一二九七)に三七才で死亡しており、通雅の養女(実父は玄駒法師)が杵築社領家廊御方と同一人物かは微妙である。
 亀山上皇は多くの女性との間に子をなしたことで知られるが、その中にも三条公親女子がみえ、性恵法親王を生んでいる。公親は正応五年(一二九二)に七一才で死亡し、嫡子実重は嘉暦四年(一三二九)にこれまた七一才で死亡しているが、公親の娘には久明親王の母、同親王の室、前述の亀山上皇の宮人(内大臣公親公女、本朝皇胤紹運録)の外に、後二条天皇との間に嘉元三年(一三〇五)に尊済法親王を産んだ御匣殿と呼ばれる宮人もいる。
 亀山上皇没後の嘉元三年一一月に定められた不断光明真言女房結番定(鎌遺二二三八五)には二番として廊御方がみえ、旧院女房尼との注記がある。この女性が翌年六月一二日昭慶門院領目録に複数の所領の領家としてみえる廊御方であろう。一方、元亨二年(一三二二)正月日尾張国堀尾庄雑掌良有申状案(鎌遺二七九五〇)には、長岡庄領家三条廊御方(亀山院祗候)がみえている。長岡庄側の庄官が堀尾庄を押領するので、日野前大納言(俊光)を奉行に領家廊御方を訴え、元応二年(一三二〇)九月二五日院宣(この時の領家が廊御方であった)以下、何度も押妨排除の院宣が出された。堀尾庄側の雑掌国弘が承伏した請文を提出したので、再度裁許の院宣を求めていたところで長岡庄本家職が元の如く近衛殿に進められた。そのため相手を代えて訴えたが、沙汰が延引しているとして、本所代々・関東度々御下知・御教書等に任せて、論所を堀尾庄に付けるとともに、自由押領を停止し、長岡庄庄官を罪科に処するよう求めている。堀尾庄は近衛北政所領であり、一族の庄園間の対立でもあった。
 以上により杵築社領家で、大覚寺統所領の領家でもあった廊御方とは、田中氏と佐藤氏いずれの説とも異なり、三条公親女子で亀山上皇の子性恵法親王を産んだ女性とみてよかろう。国造と領家との裁判関係文書に「三条殿御教書御雑□(掌)」がみえる(康永二年三月一六日京都質置文書目録)のはそのためであった。この文書との関係から、佐藤氏の新説に注目して検討を始めたが、瓢箪から駒という感じではあるが、ようやく確定できた。

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