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2018年4月18日 (水)

帳外者の帰村

 木下光生「生き抜く術と敗者復活の道」(『貧困と自己責任の日本近世史』)の中で、自己都合で無断で村を出奔した人々が帳外とされることに触れ、帳外者に待ち受けている社会の厳しさについて述べられている。隣村で非人番などを務めている例があるなど、苦しい中でも一定の見通しのもと出奔するケースも少なくないとされる。ただし、隣村でのことであり、且つ高齢化や病気により非人番が務められなくなると、村の支援を受けることは困難となり、その村を出て物乞いをする道しか残されていなかった。物乞いにも様々あるが、最悪の場合は行き倒れて死亡することもあった。
 松江藩では伊勢参詣などを口実に無断で他国へ出る人々の増加を防ぐため、帳外者の帰村を認めないだけでなく、国外で死亡した場合は関係者による引き取りと葬儀・埋葬を許可せず、出身国に青駄送りとし、そこで非人の人々によって埋葬させ、これを非人取り捨てと呼んだ。ただ、この行為の評価は難しく、とりあえずは生国に遺体は戻され、家の墓ではないが埋葬されたのである。その実態は「取り捨て」とは異なっており、非人の果たした役割は大きいとも言える。
 飢饉による大量の村からの脱出者の発生により、幕府も対応を迫られ、天保の改革では有名な人返し令(一八四三)を出さざるを得なかった。帰村の促進による村の再開発を進めようとしたのである。
 このような法令は急に出されたものではなく、寛政の改革では旧里帰農令(一七九〇)が出されており、これを徹底したのが人返し令とされる。そこでは帳外までのものと、各別の犯罪者を除いたものを村役人が身寄りのものに引き渡すよう命じている。その六年前の天保八年(一八三七)三月にも村の人別を外れたもので御救小屋に入ったものや、欠落一通りのものは免して帰住させる命令を出し、松江藩では五月に各郡に命令を伝えている。
 木下氏は一度帳外を宣告されたものであっても居村に復帰できる道の残されていたとして、一八五八年に出奔し帳外となった一家が村に舞い戻り知人を通じて帰村を打診している例を挙げている。復帰の条件は何であったかわからないとしているが、前述のように遅くとも二〇年ほど前からは、無条件ではないが帳外者の帰村が可能となっていたのである。ただ、これをもって村がより寛容となったと評価するのは正しくなく、幕府・藩・村が帳外のプラス・マイナスを勘案しての対応であった。

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