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2018年4月29日 (日)

杵築社領家廊御方について1

 杵築大社領家は弘安六年九月四日の安嘉門院の死による本家の交代に伴い、藤原兼嗣が更迭されて某御房が補任され、御房は弘安八年一〇月一八日には杵築御領内阿語・大田郷の知行を国造に認めている。次いで正応五年(一二九二)七月九日関東御教書では、国造泰孝と神主実政の相論について、泰孝の主張を認めて神主に補任すべき旨を廊御方に申し入れるよう、六波羅探題に命じている。その後、永仁三年(一二九五)二月二〇日には、幕府で廊御方と松殿宰相中将入道兼嗣との間で杵築社領家に関する相論が行われていることがわかる。次いで三月二九日には廊御方の流座(産)により沙汰が暫く延期されている。兼嗣方は杵築社領家は代々世襲してきたものであり、本家が交代しても安堵されるべきものとの主張をしていたと思われる。その後、兼嗣が領家に復帰したことが確認される。
 問題はこの廊御方が誰かである。二〇〇四年の論文では亀山上皇の庄園や分国である讃岐国の公領の領家としてみえる廊御方と同一人物だとした。そしてこの廊御方については田中健治氏「大覚寺統分国讃岐国について」(九州大学国史学研究室編『古代中世史論集』)の中で、花山院通雅の養女で亀山上皇の子兼良親王の母となった女性であるとの推定が示されていることを紹介した。田中氏論文を収録している論集については松薗氏論文が収録されている関係で、最近入手し、論文そのものを確認した。
 これに対して、最近になって、佐藤雄基氏「文書史からみた鎌倉幕府と北条氏-口入という機能からみた関東御教書と得宗書状-」(日本史研究六六七、二〇一八年)の中で、三条公親女子であるとの比定がなされているのを知った。公親女子には後深草上皇との間に幕府将軍となった久明親王を産んだ房子がおり、小宮氏が解任された跡の伊予国弓削島庄地頭職を得ていたが、房子の妹で、久明親王との間に兵部卿親王(煕明親王)を生んだ女子が廊御方であるとした。その根拠として永仁三年(一二九五)の流産の記事もあげている。
 いずれが正しいかであるが、関係者の生没年代から検討したい。後者については久明親王が建治二年(一二七六)の生まれで、正応二年(一二八九)九月に前将軍惟康が京都に送還されたことに伴い将軍となった。久明の正室は惟康女子であり、次期将軍となる守邦親王は正安三年(一三〇一)の、冷泉為相女子との間に生まれた久良親王は延慶三年(一三一〇)の生まれである。煕明親王の生年は不明で、貞和四年(一三四八)に死亡したことしかわからないが、兄弟の年齢からして永仁三年に流産した女性が煕明親王の母である可能性は低い。ということで、佐藤氏の新説は成立しない可能性が大である。

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