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2018年4月29日 (日)

頼朝の下文二通の復元1

 建久三年七月、内蔵資忠は領家藤原光隆から杵築社惣検校に補任された。国造孝房の在庁官人を巻き込んでの訴えは退けられたのである。頼朝は惣検校の補任権は持たないが、これを安堵する下文を与えた。
 これについて建武三年の領家雑掌との訴訟に提出された国造孝時申状の中に、以下のように引用されている。ただし国造側は義理と云、文章と云不審と以前の裁判で主張し雑掌は一々雌伏したと主張しているが、これは本当であろうか。
如①右大将家建久三年七月廿三日御下文者、可早任領家前中納言家下文、以資忠為惣検校職事、資忠依為相伝職、補任惣検校職畢、全不可有濫妨云々、如②同月廿五日御下文者、件人依為重代相伝者、自領家被補彼職云々、可依領家下文全不可有濫妨之由被載之訖、
 実はこの建久三年七月というのは頼朝の発給文書において重要な時期である。八月五日に頼朝は征夷大将軍に補任されたことに伴い政所始めを行い、以下の家司を政所下文の署判とした。
    別当  前因幡守中原朝臣廣元、前下総守源朝臣邦業
    令   民部少丞藤原朝臣行政
    案主  藤井俊長
    知家事 中原光家
これ以前は「前右大将家政所下文」を出していたのが、「将軍家政所下文」に変わった。そして、『吾妻鏡』の同日条には以下の有名な記事が掲載されている。
 千葉介常胤先ず御下文を給わる。而して御上階以前は、御判を下文に載せられをはんぬ。政所を始め置かるるの後は、これを召し返され、政所下文を成さるるの処、常胤頗る確執す。政所下文と謂うは家司等の署名なり。後鑒に備え難し。常胤が分に於いては、別に御判を副え置かられば、子孫万代亀鏡と為すべきの由これを申請す。仍って所望の如しと。
 有力御家人で幕府開設の功労者であった千葉介常胤が、これ以降は頼朝の袖判下文ではなく、将軍家政所下文で地頭の補任・安堵を行うとしたのに、家司等の署判に不満を持ち、自らへはそれとは別に将軍袖判下文も与えられんことを求め、頼朝もその望みに答えて下文を出した。九月一二日付の下野国小山朝政への下文も同様に、政所下文と袖判下文が発給されている。

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