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2018年4月 8日 (日)

天仁年間の杵築社仮殿造営2

 材木の漂着に関連して、神のお告げが記されている。杵築社造営の材木調達は諸国の神が協力して行うことになっていたが、今回は因幡国が担当して材木を採り進めたことを記している。治暦三年(一〇六七)の造営以降四〇年が経過したが、出雲国内の山林には造営用の材木は育っておらず、そのために他国から順番に材木を調達する方針が決定されたのであろう。因幡守藤原長隆が甥である出雲守顕頼のために提供したという個人的な問題ではない。この方針が決まったため、次回の久安元年(一一四五)の遷宮に至る造営はスムーズに行われた。ただし、どこから調達したのかは不明である。宝治二年以来四〇〇年ぶりの正殿造営となった寛文の事業でも但馬国から巨木を調達している。
 現在と同じ八丈(二四m)の正殿が造られるようになったのは治暦の造営が最初であったと思われる。それ以前からであれば天仁年間に混乱が生じることはなかったはずである。一〇世紀の『口遊』の記述からその当時の本殿の高さが一六丈(四八m)であったとの説があるが、技術的に可能という点と実際にそれが行われたかは別物である。国衙の財政状況、材木の調達、完成に至る期間(一六丈ならば八丈の二倍ではなく、四倍以上の材木と期間が必要となる)を勘案すれば、八丈を越えるものは不可能であり、中世末に正殿式の造営復活を願う関係者が妄想の中で作り出したのが一六丈説である。
 実際に三本の木を束ねた柱が確認された宝治年間の造営が二四mであったことを示す史料が残っていることについては、このブログで何度も確認したところである。その史料に基づき、一七世紀半ばの寛文の造営で八丈の本殿が復活した。また、八丈の本殿が最もスムーズに完成したのは藤原光隆在任時の久安元年の造営であった。前回の混乱が教訓となり計画的に進められた。一方では鳥羽院(安楽寿院領佐陀庄)や待賢門院(上西門院領長海庄)、さらには崇徳天皇(成勝寺領揖屋庄、杵築社領の最初の立券もこの時期であろう)の御願寺が建立されそこに出雲国内から所領の寄進が続いていたが、これを克服したのである。出雲国知行国主であった光隆の父清隆の政治力もそれに寄与したであろう。

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