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2018年4月26日 (木)

近世後期和木村の人口動向から

 小川斉子氏「近世中後期の浜田範領和木村の人口動態」(山陰研究9、2016)を読んだので、過去の記憶を思い出しつつ述べてみたい。その概要には「社会増加が人口増加に与えた影響は極めて小さく、自然増加によって高い人口増加がもたらされていたことが明らかになった」とあり、首をかしげてしまった。
 読んでみると、データに基づく分析であることは理解できたが、実際の状況の間にはギャップがあるのではないか。人口が増加した地域は海岸部が多く、その背景に漁業・製塩業の発達、食糧の生産増もあるだろうが、最大のものは水運中心の流通業の発展であろう。過去に作成した「近世島根県域における人口変動について」を読み直して確認したが、ギャップの原因は一時的な出稼ぎ者が宗門改帳に反映されないからであろう。出稼ぎ者は依然として本来居住した村の改帳に載っているのである。流通量の増加に自然増で対応できるわけはないのである。継続した仕事の増加は自然増をもたらす(出稼ぎ者が婿入りするケースも多くはないがあったであろう)が、実際の増加は宗門改帳に記されたものよりはるかに多かったと思われる。そういった人々を収容する宿泊施設も増加したであろうが、現在でも原発関連工事の宿泊者は原発が所在する町の人口にはカウントされない。
 ということで、とりあえず、人口問題の研究者には、そのような史料の発掘を期待したい。論文そのものは誤りではないが、実態は違っていた可能性が大である。無断で出奔し帳外になった人々(無宿者)も統計には含まれない。今回の論文は史料の残存により、最も人口が増加した天保の飢饉から幕末までがぽっかりと穴があいており、この時期の分析も必要である。海岸部以外でも流通に依存する割合の高い地域は人口が増加しているであろう。同様の問題は、松江藩の財政を詳細に記した「出入捷覧」についても述べたことがある。木下氏の史料でも貧困対策費について捷覧に言及されていたが、これに記されない特別会計(特に支出)については不明であり、これも史料発掘が望まれる。

 個々の点について言及すると、まずは和木村の1760年代の人口増(年平均増加率2.16)が目につく。粗出生率は4.44と最も高く、死亡率も1.63は低い方である。この時期のデータは管見の範囲ではあまりないが、迩摩郡大国村では1761年の1764人が1770年には1829人であり、ここまで増加してはいない(年平均増加率0.33)。福光下村も同様である。邑智郡矢上村では1762年の2092人が1770年には2717人で、年平均増加率は2.90と和木村よりさらに高い。和木村が属する跡市組の中心である跡市村は1750年1377人、1756年1421人、1770年1524人と年平均増加率はそれぞれ0.50と0.52である。今回史料の不足からデータが載せられなかった(単行本版がPDFで公開されているが、そこには表があり)和木村の天保の飢饉以後を計算すると、1842年1080人、1851年1300人、1868年1530人であり、年平均増加率はそれぞれ2.06と0.96となり、飢饉直後の増加率は1760年代に匹敵している。実際の増加は出稼ぎ者を加えるとはるかに多かったと思われる。それゆえに、飢饉が起きると深刻な打撃をうけたのである。村高や個人の持高も現実とは乖離しており、それを踏まえた分析が求められたが、人口についても同様である。実際の増加、減少はもっと激しかったのではないか。「社会増加の影響はほとんどない」とはマルサスの人口論と同様一面における真実でしかないのである。是非ともその地域で人口が増加した具体的要因を分析していただきたい。

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