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2018年4月15日 (日)

資料の残り方とその評価1

 訴状とそれに対するは裁許の下文がセットで残っておればよいが、杵築社については国造側の文書に訴状のみで下文が残ってない例がみられる。訴状に記された内容を分析することはよいが、大切なのは訴えが実現しなかった(敗訴した)ので下文が残っていないことである。敗訴の場合は、訴状の内容に問題があったことになる。
 建久二年七月日出雲国在庁官人等解状がこの典型的な例である。この訴えが認められた場合、写しを含めて裁許が残っていないことはありえず、国造側は内蔵資忠に敗れたのである。実際に建武三年の国造孝時の申状には、建久三年に領家側が資忠を補任した文書と幕府がこれを認めた文書が引用されている。これは領家が神主補任権を持っている証拠として出されたが、それを否定する国造側は義理と云い、文章と云い不審と主張した。実際には正しい文書からの引用であったことは明らかである。
 建武三年の裁判は国造側が勝訴した(動乱でストップヵ)可能性もあるが、この申状を含めて後世に残したくない記述があったため破棄されたと思われる。偶々佐草氏から千家氏に養子に入った出雲自清が今となっては無用なものだが惜しむ所があり、前欠ではあるが写したのである。ここで具書としてあげられている正和三年八月二七日関東下知状についても、国造側が勝訴したと述べているが、実際には残していないのも同様の理由であろう。引用されている部分からは、幕府がこの問題に口入した事が事実であることが確認できるが、「以所領捧神主知行支証」の部分は引用が不完全だと思われる。本来は領家が所領を神主に捧げた証拠の提出を求めたものであったと思われ、判決ではなく途中経過のものであろう。
 建武三年の申状の具書として提出された文書で唯一、五月一五(実際は一七)日関東下知状(付建治二年)が残っているが、国造側は申状の中でjこれを建治二年不易御下知と呼んでいるが、後述のように誤りである。具書には「同領家御状案」もみえるが、建治二年二月日に国造義孝を神主に還補した領家松殿兼嗣下文が残されている。ただしそこでは、出雲実高が遷宮旧記を所持せず先例を知らないため、造営が遅れている上に、幕府からの介入があったためとしている。補任は造営と遷宮を完了させるためである。

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