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2018年4月 2日 (月)

二月二日出雲国宣について3

 有雅は承元二年に知行国主となり、承久の乱まで在任したと思われる。長いと思われるかもしれないが、建保三年後鳥羽上皇逆修進物注文によりこの年の知行国主の七割以上が明らかになる。常陸国知行国主二条兼輔は建仁三年の時点でもすでに現任が確認できる。また、飛騨国知行国主藤原親兼も承元元年の現任が確認できるのである。承元二年一一月に内蔵孝元が杵築社権検校となり国内数ヵ所の地頭に補任されたが、それに先立つ九月二九日には国造孝綱が神魂社領大庭・田尻保地頭に補任されている。これも実質的分国主後鳥羽、知行国主源有雅のもとで実現したものである。前述のように承元年間には出雲国衙領の検注も行われており、出雲国政治史における一つの画期があったのである。
 一方で、朝廷と幕府は同床異夢の関係にあり、杵築社惣検校孝綱と権検校孝元の対立が表面化した。孝綱は幕府や国守と結んで孝元を排除しようとしたが、これが補任権を持つ領家藤原雅隆の怒りを招き、雅隆は孝元のみならず孝綱も解任し、承元四年までに国衙の有力在庁官人中原氏出身の孝高を惣検校(神主)に補任した。これに対して翌建暦元年六月に知行国主有雅が解任されたはずの孝綱を「神主」と呼んだ上で大社神田を引き募るよう命じている。朝廷・国衙・領家・幕府が協力するといういわゆる「権門体制」のもとで実現した合意は短期間で崩壊したのである。それとともに、鰐淵寺も順徳天皇即位という政治上の画期を利用して孝元が地頭である国富郷を拒否しようとしたが、結局は建暦三年二月の無動寺政所下文で押さえ込まれた形となった。
 領家と対立して神主を解任された国造孝綱は杵築社領本家である後鳥羽院の子土御門院庁に訴えて建保二年八月日の下文を得て事態の打開を図ったが、効果はなかったと思われる。一方鰐淵寺は国富郷地頭孝元の濫妨を幕府に訴え、建保四年五月一三日には孝元に代えて内蔵孝幸を地頭に補任する将軍家政所下文を獲得した。
 以上、二月二日国宣が建暦二年の可能性が高いことと、その背景と結果について分析した。

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