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2018年4月 2日 (月)

二月二日出雲国宣について2

 内容を確認すると去年一〇月に鰐淵寺から解状が提出され、知行国主のもとには一二月に到来し、これが年末年始を挟んで二月二日に国宣が出され、鰐淵寺側を批判しているのである。宛所がないが、鰐淵寺側に出されたもので、同様の内容は国衙目代にも伝えられたはずである。
 鰐淵寺側がなぜ国富郷を嫌ったかについてはすでに述べたように、承元二年一一月に国富郷地頭に杵築社権検校内蔵孝元が補任されていたからである。謀反人跡ではなく、朝廷(後鳥羽)と幕府(源実朝)の交渉により、国富郷郷司が地頭に切り替えられた。地頭の補任権は幕府にあるため、解任には幕府への申し入れと同意が必要となる。こうした状況に不満があった鰐淵寺側は、承元五年三月九日に順徳天皇代始により建暦と改元されたことで、過去の合意をリセットせんと訴えたのである。その意味では、鰐淵寺による解状の提出が建暦元年一〇月で、国宣は翌建暦二年二月二日のものである可能性が大きい。
 当時の出雲国司について確認すると、前述のように知行国主藤原範光のもとで、その娘を室とする源有雅の子敦賢が建仁三年正月に出雲守に補任されたが、範光の出家(承元元年)と源有雅の蔵人頭(承元二年七月九日)、参議(承元三年正月一三日)補任により、有雅が知行国主となった。建暦元年六月日の出雲国司庁宣に袖判を加えているのが有雅であり、奥に「大介源朝臣」とあるのは庶兄敦賢であろう。嫡男資雅は承元三年に侍従、四年従五位下、建暦三年周防権介というように国守を経由しないで昇進している。その後、建暦三年には前述のように藤原長定が出雲守に補任されるとともに、関東に祗候し、和田義盛の乱で勲功をあげていた。
(補足)建暦二年二月日後鳥羽院庁下文の署判者に前出雲守藤原朝臣がみえる。知行国主源有雅のもとで、敦賢の前任の出雲守であろう。

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