koewokiku(HPへ)

« 年未詳七月一三日院宣(鰐淵寺文書) | トップページ | 二月二日出雲国宣について2 »

2018年4月 2日 (月)

二月二日出雲国宣について1

 ①『出雲鰐淵寺文書』に続いて②『出雲鰐淵寺・旧蔵・関係文書』が刊行され、その巻末には両者を併せた編年目録が掲載された。前述の後深草上皇院宣の扱いは微妙で、目録では②に収録された「忌部惣社神宮寺恨元禄」の弘安四年五月の記事がその前に配置されたため、弘安四年と考えられているのかもしれない。ただし、それを除けば①の文書がそのまま配置されている。そうした中で表題に関わる年未詳の二月二日出雲国宣と六月八日佐々木泰清書状の年次が問題となる。特に前者は大社町史では井上寛司氏の論文での分析を踏まえて建暦三年二月日無動寺検校政所下文の前に配置されており、内容を勘案するとそれで良いと考えていたので意外であった。
 泰清書状からいくと、泰清が信濃守に補任されたのは正嘉二年二月三〇日で、『吾妻鏡』同年六月四日の勝長寿院供養の随兵にも「信濃守泰清」とみえるが、八月一五日鶴岡放生会の時点では「信濃前司泰清」と変化している。弘長二年七月二四日(書状に異筆で年号を付加、ただしこの文書について佐伯徳哉氏「中世前期の出雲地域と国家的支配」では鎌倉遺文そのままに「弘(安脱ヵ)参年」七月二五日とし、年と日が違っている。原本・写真でのチェックがなされなかったのだろうが、後述のように弘安年間には出家しているので、確認が必要である)から同一〇年にかけての発給文書では「前信濃守」と署名している。そして建治三年に比定できる五月七日書状では「沙弥」と署名して、出家が確認できる。その花押は建長年間までのものと弘長年間以降のものとの間に違いがあり、六月八日書状は弘長二年七月二四日書状の関係文書で、弘長三年頃のものであろう。
 これに対して二月二日書状の年次比定の材料となるのは「恣任年号之次第、可被免除之由申之」であろう。文永一二年四月二五日に後宇多天皇即位による代始に基づき建治と改元されているが、これを念頭に置いて考えたのだろうか。単に改元しただけでは不十分で、天皇が交替したことで、国富郷について国衙と和与した内容を変えようとしたのだろう。ただし、この結末が建暦三年二月の無動寺政所下文だと考えられるため、二月二日書状はそれ以前のものである。

« 年未詳七月一三日院宣(鰐淵寺文書) | トップページ | 二月二日出雲国宣について2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 二月二日出雲国宣について1:

« 年未詳七月一三日院宣(鰐淵寺文書) | トップページ | 二月二日出雲国宣について2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ