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2018年4月28日 (土)

国造清孝譲状について3

 ③にはこれまで述べた以外に正和三年八月二七日関東下知状とそれに関する御教書、国富・氷室綸旨・差図(宝治のものであろう)、さらには三条殿御教書(雑掌)と巻数御返事ニがあげられている。正和三年下知状富教書は後世に残したくない事実が含まれていたため、後に破棄されたと思われる。三条殿御教書については、なお確認すべきであるが、松殿兼嗣に代わって領家となった廊御方は三条公親の娘(幕府将軍久明親王の母の姉妹)との指摘があり、領家の関係文書であろうか。巻数は裁判の関係者に巻数を送った際の礼状であろうか。いずれにせよ、京都で質入した文書で現在残されているのは、大庭・田尻安堵状と綸旨・造営旧記であり、すべて北島家所蔵(一部は出雲大社に寄進された)である。
 応安三年八月二八日杵築大社神官等申状で、質入文書が北島貞孝方に渡されたと記されていることは事実ではあるが、問題は背景である。暦仁四年六月に東三郎殿御相論が発生したのは、保証人である守護塩冶高貞が謀叛の疑いで討伐されたからである。東三郎孝景の相手は孝時流の後継者貞孝であり、その結果、反貞孝方として、孝景と清孝の代官孝宗の間で同盟が結ばれ、それを示すのが三通の孝景文書である。そこでは清孝から孝宗に譲り、その上で孝景方も利益を得るものであったのだろう。ところが、孝景が死亡したことにより、訴訟関係文書は孝宗に渡されず、本来の後継者貞孝に渡されたのである。応安三年の申状に述べられていることは一面の真実でしかないのである。
 以上、関係文書がなぜ北島家に残されたのかについても論拠に基づき論証できたと考えるが、そうした場合問題となるのが、清孝譲状である。その日付もすでにみたように問題であるが、それ以上に問題なのはその内容があまりにも簡単であることである。なぜ、本来の清孝から孝宗への譲状ではなく、後に作成された可能性が大きいこの譲状が残されたのかは不明であるが、本来の譲状には貞孝との裁判で不利になる点、ないしは後世に残したくない事実が述べられていたのであろう。現時点では清孝譲状は偽文書(これに先行する譲状が存在した)であると考える。
(補足)三条殿御教書については、佐藤雄基氏「文書史からみた鎌倉幕府と北条氏-口入という機能からみた関東御教書と得宗書状-」(日本史研究667、2018.3)の説を引用したが、やはり違うのではないか。尊卑分脈には三条公親の娘に久明親王廊御方との注記があるが、杵築社領家の廊御方は大覚寺統系の人物であり、大覚寺統の分国讃岐国内の公領の領家を務めているのに対して久明親王廊御方は持明院統系の女性である。

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