koewokiku(HPへ)

« 成勝寺領寄進時の国司2 | トップページ | 院政期の因幡国司1 »

2018年4月 6日 (金)

桛田荘の立券と停廃

 紀伊国桛田荘については、一時期は讃岐院領であったが、久安四年(一一四八)正月二八日に紀伊守に補任された紀伊守源季範の時に国領に戻されたとされる(平安遺文補二三五)。季範以前の紀伊国司をみると待賢門院と崇徳院に関係する人物が目立つ。大治五年正月二八日に紀伊守に補任された藤原公重は待賢門院の兄で徳大寺実能の養子となった人物であり、保延三年時点での現任が確認できる。養父実能が知行国主であったと思われる。次いで保延四年二二日に紀伊守に補任され、翌五年の現任が確認出来る藤原親能は親頼の子で、母は皇太后宮女房因幡であった。皇太后(崇德中宮聖子が近衛天皇即位で皇太后へ、その後、院号宣下で皇嘉門院へ)に仕える女官であった。その兄弟親長は皇嘉門院の判官代となっている、
 保延六年四月三日には源行宗が大蔵卿を辞た代わりに子雅重が紀伊守に補任された。九月二日には行宗の養女兵衛佐局が崇德天皇の子重仁親王を産んでおり、この時点で懐妊が明らかになっていたであろう。雅重の祖父源基平は小一条院の子が源姓を与えられた人物であり、父行宗までは公卿に進んだが、父と同様歌人としては知られ、二条天皇の歌会の常連であったとされる雅重は公卿には昇進できなかった。桛田荘の立券はこの雅重が紀伊守の時代に認められたものであろう。
  雅重の父行宗は待賢門院への昇殿を聴され、保延五年正月には女院の御給として七六才で従三位に除せられ公卿となった人物で、待賢門院-崇徳院系との関係を有する人物であった。ただし、太政官符を得た官省符庄ではなく国免庄であったがゆえに、そして立券後間もないこともあって停止されたのだろう。
 国領に戻した源季範は白河院北面康季の子で鳥羽院北面であった。周防・河内・紀伊守を歴任しており、国司の立場に忠実に、在庁官人の要求を容れ、崇德院に忖度することなく庄園の停廃を行ったと思われる。
(訂正)当初は藤原季範としていたが、源季範に訂正し、内容もそれにみあったものに修正した。
    皇太后=待賢門院としたが、崇德中宮聖子に訂正した。

« 成勝寺領寄進時の国司2 | トップページ | 院政期の因幡国司1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 桛田荘の立券と停廃:

« 成勝寺領寄進時の国司2 | トップページ | 院政期の因幡国司1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ