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2018年4月22日 (日)

松殿兼嗣の母

 杵築社領家松殿兼嗣の母については、尊卑分脈が藤原雅隆女子とするのに対して、公卿補任(弘長元年)では故前上総介藤原重隆女子とする。井上寛司氏は前者を採用され、光隆の子である雅隆と家隆が相次いで杵築社領家を務め、家隆の死後は雅隆の子で松殿忠房の室となった女性、ないしは忠房が領家となったのではないかとされた。公卿補任が記している重隆は光隆の子雅隆の子である。
 松殿兼嗣は延応元年(一二三九)の生まれであり、久安三年(一一四七)生の雅隆を祖父とするとその生年には九二年もの差があることになり、雅隆女子説は物理的に成り立たない。また尊卑分脈では雅隆には藤原家隆の室となった女性と、松殿忠房の室となった女性が記されるが、雅隆は久安三年(一一四七)生に対して家隆は保元三年(一一五八)生、忠房は建久四年(一一九三)生である。雅隆とその娘婿忠房の年齢差が四六というのは開きすぎである。尊卑分脈には混乱がみられ、これを採用することはできない。忠房室は公卿補任の記すように重隆の娘である。
 重隆は承元元年(一二〇七)四月の時点で「上総介重隆」(上総は親王任国で、実質的には上総守)とみえ、建暦二年(一二一二)二月日後鳥羽院庁下文には前上総守藤原朝臣として署判を加えている。その花押は嘉禄年間の杵築社領家の花押とは異なり、家隆(杵築社関係文書を除けば花押は確認できない)が雅隆に続いて領家となったことは確実である。ただし、寛喜元年七月の領家の花押は家隆よりも重隆の花押に似ている。文暦二年の領家の花押は家隆・重隆のいずれとも違うようにみえるが、寛喜元年の花押を踏まえると、重隆の花押が変化したものともみられる。
 重隆は承久の乱を間に挟んで、天福元年正月二四日の除目で弾正少弼に補任されるが、同年一二月一五日には「従四位下藤重隆止弼」とある。仁治三年四月に従四位上、寛元三年五月一八日に上総前司重隆とみえ、同年九月八日に前上総介重隆死去とある。公卿(参議ないしは従三位)目前であった。
 雅隆が死亡した貞応三年(一二二四)の時点では三〇才は越えていたことは確実で、重隆ではなく家隆が杵築社領家を継承したのは承久の乱との関わりで、重隆の出世が遅れ、公卿にならなかったからであろうか。雅隆には僧となった一名を除き重隆を含む五名の男子がいたことが確認されるが、公卿に進んだものはいない。また、家隆が死亡した嘉禎三年(一二三七)でも重隆が健在であるにも関わらず、松殿忠房(元仁元年大納言補任、寛喜三年に辞任し前大納言)の室となった重隆の娘に領家の地位を譲ったとするよりも、家隆から兄雅隆の子重隆に領家が交代し、重隆の死によりその娘が継承したとした方が可能性は高いのではないか。確かに家隆は建久九年正月から建永元年正月まで父光隆のもとで上総守(実際には上総介)を務めているが、従二位公卿まで進んでおり、「かつさのかうの殿」と呼ばれる可能性は低いのではないか。建永元年正月からは雅隆が上総国知行国主となり、国守(実際には介)はその子仲隆であったが、承元元年四月に補任され、承元三年八月の時点でも上総守(実際には介)現任が確認できる「重隆」こそ雅隆の子藤原重隆に他ならない。「かつさのかう殿」=重隆であろう。
注記 最初に「尊卑文脈が光隆女子」としていたのは誤りで「雅隆女子」に訂正。

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