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2018年4月

2018年4月30日 (月)

領家藤原光隆の下文

 建久三年の頼朝の下文は領家光隆の下文をうけて、御家人である内蔵資忠に安堵したものであったが、最初に光隆が資忠を神主(惣検校)に補任したのは文治二年五月三日であった。それを記した『吾妻鏡』の記事は光隆下文を引用した頼朝下文に基づき書かれた可能性が大きい。そこには以下の様に記されている。
 出雲国杵築大社総(惣)検校職事、停止出雲則房、以同資忠令計補給云々
『吾妻鏡』承元二年一一月一日には資忠の子孝元に関する記事が以下のように見えている。
 出雲国杵築社権検校并祝師御供所別当職事、内蔵孝元可被補任之旨、被仰遣領家坊城三品之許、彼孝元父資忠右幕下御時有大功之間、被補件職畢、就其例今又如件云々、加之、孝元当国内拝領数箇所地頭職云々、師文・清定・孝尚等奉行之
 領家下文そのものの復元は単純ではないので、その概要を以下に述べる。頼朝が領家光隆に対して、内蔵資忠を出雲国杵築大社総検校(神主)職に補任することを求める文書を送った。そこには、資忠が頼朝が伊豆国に配流された際の大功が記されるとともに、その父忠光が惣検校を務めたことも記され、重代相伝である旨も記されていた。
 これを受けて光隆は思案した後に、その要請を受け入れる旨、回答したと思われる。一つには孝房は父宗孝の地位を継承し、前年一一月三日出雲国司庁宣で国造に補任され、同時に惣検校に補任されたばかりであり、若かったと思われる。これに対して、資忠は二〇年以上前の頼朝の配流の時点では成人していたと思われ、経験豊かであるとともに、頼朝の御家人であった。孝房の父宗孝と資忠は同世代であり、両者の間には父と子ほどの年齢差があった。これに加えて孝房の父宗孝はこの前後に死亡したと思われ、そのバックアップも期待できない。また、出雲国は知行国主藤原朝方のもとでその子朝経が国守を務めていたが、頼朝はその目代に御家人兵衞尉政綱を推薦し、この起用を実現していた。当時は杵築社本殿の造営中であり、こうした条件を考えて、光隆は孝房を惣検校から更迭し、推薦を受けた資忠に交代させたのであろう。資忠は惣検校在任中に二度も鎌倉を訪問するなど、頼朝との間に緊密な関係を持ちつつ、造営を進めたと思われる。

 

 

松殿兼嗣の領家復帰とその後2

 裁判では神主職と社領について争われ、領家側は神主は自らが補任するもので、国造が世襲するものではないことと、社領に関する最終的決定権も領家にあることを主張したと思われる。このうち、神主については以前の実政との裁判で、正応五年に「泰孝は御家人である上に重代として造営旧記を帯びており泰孝が神主に補任されるべきである」との判断を幕府がしており、正和三年八月二七日関東下知状でも同様の判断が下されたが、社領の問題が残され、両方に証拠を提出するように命じられた。これに対して判決直前の七月一六日に兼嗣が三崎社検校に虎一丸を補任しているように、領家にとって幕府の判断は容認できないものであった。
  ところが、兼嗣自身が文保元年(一三一七)三月三日に七九才で死亡した。その子通輔(兼輔から改名)が領家を継承したと思われるが、元亨三年には杵築社の本家職が後醍醐天皇から永嘉門院(父宗尊親王は承明門院の曾孫で、彼女は土御門殿で育つ)に返された。後の裁判で永嘉門院の後継者である柳原宮は、松殿氏による支配は元亨三年以降不知行になったと主張している。これは事実ではないが、本家永嘉門院も元徳元年八月二九日には五八才で死亡しており、そのもとで育てられていた邦良親王も正中三年三月二〇日に二七才で死亡し、残されていた邦良の同母弟邦省は二五才、第一皇子康仁親王は七才であった。
  両者とも歴史に翻弄され、邦省は兄邦良に代わる立太子を望むが持明院統の量仁が皇太子となり果たせず、量仁の次との希望は後醍醐天皇の反対で失敗し、この間後見人洞院実泰も嘉暦二年に死亡した。一方、康仁は後醍醐の隠岐配流後即位した持明院統の光厳天皇の皇太子となったが、後醍醐天皇が復位すると廃太子とされた。
 次いで隠岐に配流されていた後醍醐天皇が皇位に復帰した後の元弘三年一二月一〇日には杵築社の本所号が停止され、本家・領家は中断を余儀なくされたが、建武政権の末には撤回されたのではないか。この間、建武元年五月一八日には神主孝時が領家前雑掌による妨げを訴え、妨げを止め孝時を庄家に沙汰居らせるように命じた雑訴決断所牒が出されている。それが国造孝時の後家覚日は建武二年末には沙汰のため支証を京都にあげたと述べており、建武三年には孝時による領家への反論の申状も作成されている。復活した領家は兼嗣の後継者であり雑掌孝助により越訴が提起された。正和三年に国造の神主職補任については認められたが、それをふくめて再度裁判が行われることになった。その後の史料は残っていないが、貞和二年八月には本所雑掌と国造千家孝宗が杵築社領内で合戦に及び、守護代吉田厳覚の注進に基づき侍所細川の奉書が出されている。対立はなお続いていたのである。この後、観応の擾乱が起こり、幕府から半済令が出される中、領家の関与は弱まったと思われる。本家についても柳原宮は康仁親王の弟邦世親王の一流であり、強力な支配を行うことはできなかったと思われる。

松殿兼嗣の領家復帰とその後1

 杵築大社領の本家と領家10で述べた点を再確認し、一部修正する。
 中納言僧都御房については宗派のトップ級の人物であろうが、花押が一致する人物がおらず具体的比定は現時点では困難である。その父親が中納言ないしは権中納言であったためこのような名称で呼ばれている。杵築社領家としたが、その関係史料は出雲実政に関するもので、細引・桑原についても杵築社領に該当する場所が現段階では確認できない。よって、実政は一四世紀初めには中納言僧都が支配する別の所領の預所だと考えるべきであろう。実政の父真高の余類である孝助との裁判の関係で国造側が中納言僧都に照会したことに対する回答であった。
 よって亀山上皇との間に子をなした三条廊御方から中納言僧都に領家が代わったのではなく、廊御方から松殿兼嗣に交代したのである。兼嗣の復帰が確認出来るのは嘉元四年八月であり、前年に亀山上皇が死亡したことによると思われる。廊御方と兼嗣の裁判が幕府で行われていたが、大覚寺統の実権を握っている亀山上皇が健在なうちは、幕府も領家の交代命令は出せなかった。
 基本的には兼嗣は代々領家を務めてきたので、本家が代わってもその権利は認められるとの主張がようやく認められたのであろう。兼嗣は千家村を五辻三位親氏に譲ることを約束しているが、親氏の姉妹宗子は後宇多上皇の子で後二条天皇との間に正安二年(一三〇〇)には第一皇子邦良親王を産んでいた。兼嗣は五辻親氏を通じて後宇多へも働きかけ、その見返りとして千家村の譲与を行ったと思われる。
 領家に復帰した兼嗣にとって、過去に不忠のあった実政を預所に起用することはありえず、そのため一族の別の人物である孝助(本名孝覚)が起用されたのだろう。兼嗣と孝助は徳治二年(一三〇七)一二月一五日に父泰孝から神主を譲られた国造孝時に対して厳しい対応をしたと思われる。この点について国造側は雑掌が社頭等を押領したので幕府に訴え、延慶二年(一三〇九)から裁判が始まったとする。

2018年4月29日 (日)

頼朝の下文二通の復元3

①頼朝(前右大将家)政所下文
前右大将家政所下 出雲国杵築大社神官等
 可早任領家前中納言家下文、以資忠為惣検校職事、
資忠依為相伝職、補任惣検校職畢、全不可有濫妨之状如件、以下、
  建久三年七月廿三日  案主藤井(花押)
令民部少丞藤原(花押)  知家事中原(花押)
別當前因幡守中原朝臣(花押)
 前下総守源朝臣
 散位中原朝臣
☆最後の二人は花押がないのが普通であり、このようにした。
②頼朝袖判下文
    (花押)
下 出雲国内蔵資忠
 出雲国杵築大社惣検校職事
件人依為重代相伝者、自領家被補彼職云々、可依領家下文全不可有濫妨之状如件、
  建久三年七月廿五日
☆内蔵資忠を重代相伝として領家藤原光隆が補任していることがわかり、国造家としては絶対残したくない史料であったが、歴史に造詣の深い佐草自清がその大半を写していたがため、真実に接近することができた。建武三年国造孝時申状はその意味で杵築社の歴史を解明する上で必要不可欠なものであり、これがなければ、史料を選別して残す側の歴史像の先に進むことはできなかった。内蔵資忠の父忠光は日野実光・資憲とその背後にいる崇徳上皇と結んで杵築社領の立券を行ったが、藤原清隆・光隆父子もまた崇徳の母待賢門院との深いつながりを持っていた。頼朝とその母の実家熱田大宮司家もまた、待賢門院ならびにその子上西門院と深いつながりがあった。
③領家藤原光隆下文
    (花押)
下 杵築大社神官等
 補任惣検校職事
  内蔵資忠
右人依為重代相伝者、所補任彼職也、御神事以下御年貢諸役可令勤仕之状、所仰如件、神官等宜承知、勿違失、以下、
 建久三年七月 日

頼朝の下文二通の復元2

 そうした目で内蔵資忠への発給文書を見ると、ここでは日付こそ二日違いであるが、やはり二種類の下文が発給されている。それも七月の時点では将軍家政所下文ではなく、前右大将家政所下文である。この二種類の文書を復元しようとして、はたと悩んでしまった。袖判下文から政所下文への切り替え期であり、鎌倉遺文の建久年間の頼朝文書を見つつ、さてどうしたものかと、なかなか前に進めなかったのである。それでついついパソコンの画面の前でうたた寝をしてしまい、しばしして目覚めた際にも途方にくれてしまった。
 それが、ようやく納得のできる解答を発見できたのである。①には「右大将家」とあるように、政所下文であった。それも「前」こそ欠落しているが将軍家政所下文ではないのである。これに対して②は袖判下文であった。普通の地頭補任状と違い、領家の補任状を安堵するものなので簡単では無いが、引用部分は正確だと確信した。①は杵築社神官等に対して下され、より主従関係を反映した②は内蔵資忠に対して下されたのである。九月一二日付の二通の文書が残っている小山氏のケースも、政所下文は下野国日向野郷住人に対して下されている。実際には所領毎に出されたのだが、日向野郷地頭職のみ(吾妻鏡に別の写しが一通あり)が残っている。これに対して袖判下文は下野国左衛門尉朝政に下され、政所下文の旨に任せて所々地頭職を領掌せよとしている。
 これに対して、内蔵資忠宛の②は政所下文ではなく、領家下文に依りとあるが、これは補任権が領家にあるからであろう。二通の申状に引用された下文については、当初井上寛司氏が国造家の主張のように偽文書だとされたが、二〇〇四年の論文ではじめてこれを正しいものとしたのである。とはいえ、復元の問題から100%とは言えないところがあったが、ようやく100%正しい文書であるとの確信を持った。以下に①②の復元案を示す。日付の違いはやはり、資忠が政所下文のみではなく、袖判下文を求めたからであろう。当然、千葉介常胤の事例より早い前右大将家の時点のものであり、大変貴重なものである(復元案に続く)。

頼朝の下文二通の復元1

 建久三年七月、内蔵資忠は領家藤原光隆から杵築社惣検校に補任された。国造孝房の在庁官人を巻き込んでの訴えは退けられたのである。頼朝は惣検校の補任権は持たないが、これを安堵する下文を与えた。
 これについて建武三年の領家雑掌との訴訟に提出された国造孝時申状の中に、以下のように引用されている。ただし国造側は義理と云、文章と云不審と以前の裁判で主張し雑掌は一々雌伏したと主張しているが、これは本当であろうか。
如①右大将家建久三年七月廿三日御下文者、可早任領家前中納言家下文、以資忠為惣検校職事、資忠依為相伝職、補任惣検校職畢、全不可有濫妨云々、如②同月廿五日御下文者、件人依為重代相伝者、自領家被補彼職云々、可依領家下文全不可有濫妨之由被載之訖、
 実はこの建久三年七月というのは頼朝の発給文書において重要な時期である。八月五日に頼朝は征夷大将軍に補任されたことに伴い政所始めを行い、以下の家司を政所下文の署判とした。
    別当  前因幡守中原朝臣廣元、前下総守源朝臣邦業
    令   民部少丞藤原朝臣行政
    案主  藤井俊長
    知家事 中原光家
これ以前は「前右大将家政所下文」を出していたのが、「将軍家政所下文」に変わった。そして、『吾妻鏡』の同日条には以下の有名な記事が掲載されている。
 千葉介常胤先ず御下文を給わる。而して御上階以前は、御判を下文に載せられをはんぬ。政所を始め置かるるの後は、これを召し返され、政所下文を成さるるの処、常胤頗る確執す。政所下文と謂うは家司等の署名なり。後鑒に備え難し。常胤が分に於いては、別に御判を副え置かられば、子孫万代亀鏡と為すべきの由これを申請す。仍って所望の如しと。
 有力御家人で幕府開設の功労者であった千葉介常胤が、これ以降は頼朝の袖判下文ではなく、将軍家政所下文で地頭の補任・安堵を行うとしたのに、家司等の署判に不満を持ち、自らへはそれとは別に将軍袖判下文も与えられんことを求め、頼朝もその望みに答えて下文を出した。九月一二日付の下野国小山朝政への下文も同様に、政所下文と袖判下文が発給されている。

資料の声を聴くとは?

 これまで何度かこのテーマについて述べているが、現段階での考えを述べたい。二〇〇三年と二〇〇四年に初めて中世前期の杵築社に関する論文を二本執筆した。前者は国衙との関係を中心とし、後者は荘園領主による支配と現地でそれを担った神主の問題であった。現在はその二〇一八年度版を作成中で、これが最終的な中世前期の杵築社に関する政治史のまとめになるようにしたい。杵築社については宗教的分析も可能であろうが、自分自身は明確な根拠を示せない分野について論文は作成できない。その分野の論文は作成可能だろうが、現時点の自分の歴史的基盤では無理だという認識である。
 杵築社や石見国益田氏については、後に作成された文書を如何に評価するかという課題があり、通常の中世史の分析対象より、より困難が伴い、分析する側にもその高い壁を乗り越えるための準備が必要である。それがないまま分析すれば、史料を選別して残し、時には作成するという残した側が作りあげたイメージのままの説を示すことになり、実際の実像とは異なる虚像の定着に荷担することになる。当然、そのような意図をもって研究を行う人は一部の例外を除いていないはずである。一部とは歴史像との間に利害関係を持つ人々である。わかりやすく言えば関係者である。
 一方、史料を読んで自らのイメージを形成していく過程では、通説やある分析視角を利用することもある。それそのものが否定されるわけではないが、不断の検証とともに研究を進めていかないと、これまた実像とはほど遠い虚像を提示してしまうことがめずらしくない。最初に述べたのが「史料を残した側からの歴史」であるのに対して、後者は「史料を分析する側からの歴史」である。どちらもそれ自体は否定されないが、それに偏った分析をすると、自分勝手な分析となり結果的に虚像を作りあげてしまうことになる。
 それに対して本ブログでは史料そのものの立場に立った分析を基本としている。ブログの途中段階では、残した側の意図に気づかないいで引きずられてしまうこともあれば、通説を含む先入観で史料を読んでしまうこともあるが、試行錯誤を重ねて、「資料の声を聴いた」というレベルになった段階で論文を作成している。それが永遠の課題である真実に接近できる唯一の方法だからである。作品として示した過去の論文も日々検証の対象である。実際にこのブログを始めた10年前よりも、分析するための道具はより多く身につけていることは確実である。過去に発表した論文をほとんどそのままで、論文集にまとめることは自分では想像だにできない。その一つとして、二〇一八年版「中世前期出雲大社史の再検討-文書の声を聴く-」を提示したい。

杵築社領家廊御方について2

 一方、兼良親王は生没年代が不明であるが、亀山上皇の第二皇子である後宇多上皇が文永四年(一二六七)の生まれで、第一四皇子でその膨大な庄園群を譲られた恒明親王が乾元二年(一三〇三)の生まれであることからすると、比定は可能である。ただし、廊御方の養父花山院通雅は建治二年(一二七六)に四五才で死亡し、兄の早世によりその後継者となった子の家教も永仁五年(一二九七)に三七才で死亡しており、通雅の養女(実父は玄駒法師)が杵築社領家廊御方と同一人物かは微妙である。
 亀山上皇は多くの女性との間に子をなしたことで知られるが、その中にも三条公親女子がみえ、性恵法親王を生んでいる。公親は正応五年(一二九二)に七一才で死亡し、嫡子実重は嘉暦四年(一三二九)にこれまた七一才で死亡しているが、公親の娘には久明親王の母、同親王の室、前述の亀山上皇の宮人(内大臣公親公女、本朝皇胤紹運録)の外に、後二条天皇との間に嘉元三年(一三〇五)に尊済法親王を産んだ御匣殿と呼ばれる宮人もいる。
 亀山上皇没後の嘉元三年一一月に定められた不断光明真言女房結番定(鎌遺二二三八五)には二番として廊御方がみえ、旧院女房尼との注記がある。この女性が翌年六月一二日昭慶門院領目録に複数の所領の領家としてみえる廊御方であろう。一方、元亨二年(一三二二)正月日尾張国堀尾庄雑掌良有申状案(鎌遺二七九五〇)には、長岡庄領家三条廊御方(亀山院祗候)がみえている。長岡庄側の庄官が堀尾庄を押領するので、日野前大納言(俊光)を奉行に領家廊御方を訴え、元応二年(一三二〇)九月二五日院宣(この時の領家が廊御方であった)以下、何度も押妨排除の院宣が出された。堀尾庄側の雑掌国弘が承伏した請文を提出したので、再度裁許の院宣を求めていたところで長岡庄本家職が元の如く近衛殿に進められた。そのため相手を代えて訴えたが、沙汰が延引しているとして、本所代々・関東度々御下知・御教書等に任せて、論所を堀尾庄に付けるとともに、自由押領を停止し、長岡庄庄官を罪科に処するよう求めている。堀尾庄は近衛北政所領であり、一族の庄園間の対立でもあった。
 以上により杵築社領家で、大覚寺統所領の領家でもあった廊御方とは、田中氏と佐藤氏いずれの説とも異なり、三条公親女子で亀山上皇の子性恵法親王を産んだ女性とみてよかろう。国造と領家との裁判関係文書に「三条殿御教書御雑□(掌)」がみえる(康永二年三月一六日京都質置文書目録)のはそのためであった。この文書との関係から、佐藤氏の新説に注目して検討を始めたが、瓢箪から駒という感じではあるが、ようやく確定できた。

杵築社領家廊御方について1

 杵築大社領家は弘安六年九月四日の安嘉門院の死による本家の交代に伴い、藤原兼嗣が更迭されて某御房が補任され、御房は弘安八年一〇月一八日には杵築御領内阿語・大田郷の知行を国造に認めている。次いで正応五年(一二九二)七月九日関東御教書では、国造泰孝と神主実政の相論について、泰孝の主張を認めて神主に補任すべき旨を廊御方に申し入れるよう、六波羅探題に命じている。その後、永仁三年(一二九五)二月二〇日には、幕府で廊御方と松殿宰相中将入道兼嗣との間で杵築社領家に関する相論が行われていることがわかる。次いで三月二九日には廊御方の流座(産)により沙汰が暫く延期されている。兼嗣方は杵築社領家は代々世襲してきたものであり、本家が交代しても安堵されるべきものとの主張をしていたと思われる。その後、兼嗣が領家に復帰したことが確認される。
 問題はこの廊御方が誰かである。二〇〇四年の論文では亀山上皇の庄園や分国である讃岐国の公領の領家としてみえる廊御方と同一人物だとした。そしてこの廊御方については田中健治氏「大覚寺統分国讃岐国について」(九州大学国史学研究室編『古代中世史論集』)の中で、花山院通雅の養女で亀山上皇の子兼良親王の母となった女性であるとの推定が示されていることを紹介した。田中氏論文を収録している論集については松薗氏論文が収録されている関係で、最近入手し、論文そのものを確認した。
 これに対して、最近になって、佐藤雄基氏「文書史からみた鎌倉幕府と北条氏-口入という機能からみた関東御教書と得宗書状-」(日本史研究六六七、二〇一八年)の中で、三条公親女子であるとの比定がなされているのを知った。公親女子には後深草上皇との間に幕府将軍となった久明親王を産んだ房子がおり、小宮氏が解任された跡の伊予国弓削島庄地頭職を得ていたが、房子の妹で、久明親王との間に兵部卿親王(煕明親王)を生んだ女子が廊御方であるとした。その根拠として永仁三年(一二九五)の流産の記事もあげている。
 いずれが正しいかであるが、関係者の生没年代から検討したい。後者については久明親王が建治二年(一二七六)の生まれで、正応二年(一二八九)九月に前将軍惟康が京都に送還されたことに伴い将軍となった。久明の正室は惟康女子であり、次期将軍となる守邦親王は正安三年(一三〇一)の、冷泉為相女子との間に生まれた久良親王は延慶三年(一三一〇)の生まれである。煕明親王の生年は不明で、貞和四年(一三四八)に死亡したことしかわからないが、兄弟の年齢からして永仁三年に流産した女性が煕明親王の母である可能性は低い。ということで、佐藤氏の新説は成立しない可能性が大である。

2018年4月28日 (土)

尾氏春秋と地震記事3

 天保一二年閏正月一一日4つ時に久しぶりの大地震。二三日4つ時にも地震。七月一七日夜9つ時に地震。九月二〇日7つ時地震。しばらく空いて天保一五年九月七日8つ時地震。また空いて弘化二年一〇月二日夜8つ時地震。弘化四年三月二四日に信州大地震。6千人余死亡。嘉永二年六月六日8つ時地震。一〇日6つ下地震。嘉永六年二月二日相模国箱根辺大地震。六月晦日8つ半地震。八月二日4つ前地震。一〇月一六日4つ時地震。
 嘉永七年六月一四日夜8つ時上方地震。一五日朝5つ時大地震。一六日暮れまで七三度の大地震。一一月四日朝4つ時地震殊の外長し。五日7つ時大地震。筆者七二才でこれほどの大地震を知らず。七日4つ時大地震。杵築では一〇五軒損ず。地震が続き一二日夜4つ時大地震。
 杵築大鳥井丁第一番ニ大損じ第二番ニ市場村越峠村大工地少々
○五十一軒本倒れ○四十一軒是ハ本倒れ同様作事ニ不掛
○四十六軒半倒れ・卅三軒大損事メて七十一軒  ○同所赤塚村仮ノ宮村ハ村家無之
○西御殿并社中方も山手ニ付候分ハ無候  ○牢籠崎鶩鶇峠損家無之
○楯縫の浦方も無難  
○半里程辰をノ方在ニ継ヶ崎と申所本倒れ半倒れ卅軒有之畑三町五反ノ内七反ハ地上り壱丁八反分ハ壱尺五寸はずし申候
○西其村本倒れ半倒れニて卅軒村内所ニ割れ目出来候所もあり沈ミも有之
○大島村田畑二丁歩土地にえニミ壱尺五寸位割目付中より水黄色の砂吹出し候よし
○楯縫平田近在ニて大分有之よし今市も七軒倒れ半倒れ」も有之左あらく申上候以上。

 伯州堺より飛脚到来ニ付噂左の通り○堺卅軒五軒大損じ倒れ家あり○米子大分の事あだち大庄屋の家も倒れ候よし三四年前二立候折宅○濱の目同断○鳥取城下四五十軒○江津平田屋よりノ飛脚十七軒○濱田卅軒損家有之又千ヶ等の咄しニ因伯作同断と申
 一一月一八日大地震。大坂では津波に襲われる。全国で被害。東海道大地震津波。

国造清孝譲状について4

  貞和五年に行われていた訴訟で問題となったのは、①建武元年八月一〇日国造孝時譲状と②建武二年一一月二日国造孝時譲状である。①は清孝への、②は清孝は一期分として、その跡をあかこまろ(北島貞孝)に譲るというもので、両方が成り立つことはなく、少なくとも一方は偽文書である。①については佐草禅光の手跡であり、孝宗が保管してきたと説明されたが、貞孝側は偽文書だと主張した。確かに「国造兼大社出雲孝時」との署名はありえない表現であるし、内容も孝時が相続した際の事情を踏まえていない。なによりも、両当事者は真相を知っているが、結果的に第三者がどう判断するかであり、どちらがもっともらしく主張できるかである。これに対して②は孝時の室で孝宗・貞孝の母である妙善が執筆したと貞孝が主張したのに対して孝宗は有効な反論ができず、承伏せざるをえなかったことが記されている。この二つの譲状の真偽は明らかであろう。ちなみに②では国造神主孝時(実際はひらがなで)と署名しているが、これには問題が無い。
 もうひとつ問題となったのが、③康永二年五月一六日妙善書状であり、孝宗側が妙善の自筆であり、火継ぎ神事を行った証拠として提出したものであった。これに対して貞孝側は偽文書と答えるのではなく関知しないと述べている。孝宗方が火継ぎを行っていないとの批判をかわすために提出したのに対して、①が偽文書で、②が正しい文書ならば③の真偽は関係ないということであろう。清孝が孝宗に譲る権限を持っていないということである。国造家の分立後ならともかく、一統国造の時代に、清孝の死をうけて貞孝が火継ぎ神事を行っているのに、さらに孝宗がこれを行うことは不可能であろう。
 以上のように、両者の主張のいずれが事実に基づくかは明らかである。しかし、それにも関わらず紛争は起きているのであり、その原因を明らかにする必要がある。本ブログでは、孝宗と貞孝の対立は孝時流内部の問題だが、これに尼覚日の実子である孝景が参戦してきたことにより、問題は複雑化した。孝宗と孝景が手を結んだわけであるが、孝宗が清孝から譲られたにしてもそれは孝時流の問題であり、孝景は孝宗に協力しつつも、母覚日が自らを後継者に選ぶことを期待したのであろう。ただし、そのような選択をすれば、さらに決着が遠のくことを覚日は知っており、孝宗と貞孝の中での決着を望んだのであろう。

国造清孝譲状について3

 ③にはこれまで述べた以外に正和三年八月二七日関東下知状とそれに関する御教書、国富・氷室綸旨・差図(宝治のものであろう)、さらには三条殿御教書(雑掌)と巻数御返事ニがあげられている。正和三年下知状富教書は後世に残したくない事実が含まれていたため、後に破棄されたと思われる。三条殿御教書については、なお確認すべきであるが、松殿兼嗣に代わって領家となった廊御方は三条公親の娘(幕府将軍久明親王の母の姉妹)との指摘があり、領家の関係文書であろうか。巻数は裁判の関係者に巻数を送った際の礼状であろうか。いずれにせよ、京都で質入した文書で現在残されているのは、大庭・田尻安堵状と綸旨・造営旧記であり、すべて北島家所蔵(一部は出雲大社に寄進された)である。
 応安三年八月二八日杵築大社神官等申状で、質入文書が北島貞孝方に渡されたと記されていることは事実ではあるが、問題は背景である。暦仁四年六月に東三郎殿御相論が発生したのは、保証人である守護塩冶高貞が謀叛の疑いで討伐されたからである。東三郎孝景の相手は孝時流の後継者貞孝であり、その結果、反貞孝方として、孝景と清孝の代官孝宗の間で同盟が結ばれ、それを示すのが三通の孝景文書である。そこでは清孝から孝宗に譲り、その上で孝景方も利益を得るものであったのだろう。ところが、孝景が死亡したことにより、訴訟関係文書は孝宗に渡されず、本来の後継者貞孝に渡されたのである。応安三年の申状に述べられていることは一面の真実でしかないのである。
 以上、関係文書がなぜ北島家に残されたのかについても論拠に基づき論証できたと考えるが、そうした場合問題となるのが、清孝譲状である。その日付もすでにみたように問題であるが、それ以上に問題なのはその内容があまりにも簡単であることである。なぜ、本来の清孝から孝宗への譲状ではなく、後に作成された可能性が大きいこの譲状が残されたのかは不明であるが、本来の譲状には貞孝との裁判で不利になる点、ないしは後世に残したくない事実が述べられていたのであろう。現時点では清孝譲状は偽文書(これに先行する譲状が存在した)であると考える。
(補足)三条殿御教書については、佐藤雄基氏「文書史からみた鎌倉幕府と北条氏-口入という機能からみた関東御教書と得宗書状-」(日本史研究667、2018.3)の説を引用したが、やはり違うのではないか。尊卑分脈には三条公親の娘に久明親王廊御方との注記があるが、杵築社領家の廊御方は大覚寺統系の人物であり、大覚寺統の分国讃岐国内の公領の領家を務めているのに対して久明親王廊御方は持明院統系の女性である。

国造清孝譲状について2

 次に治暦・永久造営旧記については正文は知らないと孝景が述べている。質入れ文書目録にも宝治造営旧記は含まれているが、治暦・永久旧記は含まれていない。領家雑掌との裁判で有効なのが国造側が神主・権検校を独占して行った宝治の造営の記録である。建武三年に比定できる尼覚日書状では、去年建武二年の冬に沙汰の事で京都に持って行き、玉造の僧「めうせうの御房」に預けた際の請取状を守護塩冶高貞に提出することを述べている。清孝が国造・神主を相続したことを守護に安堵を受けるためであろう。実際に六月五日に高貞が覚日書状を「執達如件」として国造に伝えている。
 ただし、旧記以下の文書の中には孝時が長子である僧弘乗房に預けていたものもあり、暦応二年二月二七日には弘乗房が清孝方に渡したことを高貞が承知したことを弘乗房に伝えている。その中に治暦・久安旧記は含まれていなかったため、孝宗は孝景に問い合わせ、孝景はその旧記については知らないと述べているのである。また、建武二年冬に京都に文書が持って行かれた文書の中に孝時譲状並びに置文が含まれない事は明らかである。孝時と雑掌の訴訟には無関係だからである。譲状・置文は治暦・久安旧記とともにそれで利益を得る貞孝(あかこまろ)方に渡されたのである。
   ②には旧記に続いて、六波羅番役と異国警固番役の文書について記している。国造が御家人であることを示す文書としてあげられているが、孝景は守護の関係文書とともに所在は不明としている。③でも大庭田尻安堵状が問題となっているが、幕府発給文書であろう。②では次いで三月会関係文書とさくさの武家御下文について孝景は承知していないと答えている。最後に造営に関するものであろうが、正税未進に関する御教書を含めて清孝方に渡すべき文書があれば後日にすすめると述べ、当社大明神に誓っている。

国造清孝譲状について1

 康永二年三月二八日国造清孝譲状について再検討する。泰孝と孝時の譲状と置文についてみたが、それと比べて清孝譲状はきわめて簡単である。一応、孝時流で清孝の後継者は貞孝だということは決まっていたが、それを覆して孝宗に譲ったことだけではなく、もうひとつの問題として、孝景流を含めて尼覚日が後継者を決定してはじめて、国造・神主が決まるのに、それについて何の言及もないのである。清孝が貞孝ではなく孝宗に譲っただけでは問題は解決しないのである。
 関係文書を確認すると、「康永二」の追記のある三月三日左衛門尉義政・左衛門尉親清挙状では「国造孝宗」と記しており、これ以前に清孝から孝宗への譲与(それが正当がどうかは別の問題である)は行われていたはずである。それに基づき、孝宗が社領一二郷と多祢郷内坂本村等について、具書とともに守護方に安堵を求め、それを報告したのがこの挙状である。そして三月一六日には出雲孝景が和与状を作成し、領家との訴訟のため京都に持って行った文書について説明するとともに、引き渡しを約束している。当然、この相手も孝宗である。関係文書を①孝景和与状(大社四四六)、②孝景起請文(大社四四七)、③京都質券文書目録(大社四四八)として内容を分析する(文書名は適切とおもうものに修正)。
 ①では和与の内容として大庭田尻保地頭職、遷宮旧記等神主職相続に関する文書等を引き渡すことを述べている。②ではその文書の詳細を説明している。最初に泰孝から孝時への譲状の正文は焼失したと聞いていたが、それ(?)から提供された案文を写して参らせたとする。これが千家文書に残されている写(大社四四九)であるが、その裏書には「それより給下候案文ニまかせてかきて候、正文ハやけて候よりうけ給り候」とした上で、孝宗が三月一六日付で裏を封じている。裏封とはその後の改変を防ぐための行為であるが、孝景と孝宗が述べているのは真逆である。孝景が述べているのが真実であり、孝宗から提供された写をもとに正文の写と称するものを作成したのであろう。そうみせかけるために孝宗が裏を封じたのであろう。ただし、文書の内容は北島家文書に残されている正文との違いはない。

2018年4月27日 (金)

東三郎殿御相論2

 今回、国造泰孝譲状ならびに置文の内容との関係を踏まえた上で孝時譲状と置文の関係をみなければならないことを確認した。泰孝譲状では神主職と所領を嫡子孝時に譲るとしているが、置文では孝時への譲与は一期分であり、その後継者は尼覚日が孝時と福得(孝景)のいずれかの子に与えることを求めている。孝時譲状は父の譲状を受けて後継者を一期分の清孝とその後の貞孝という形にしたが、孝時・福得の子のいずれかに覚日が与えるべしとの泰孝置文がその前提にあるのである。孝時の後継者と福得の後継者のいずれかを選ぶのは覚日の権限であることを再確認したのが孝時置文である。
 以上のことを踏まえると、東三郎殿御相論とは福得=孝景が孝時の後継者清孝・貞孝に対して起こした相論であったことになる。康永三年二月九日には某(高よし)が伯父孝時からの譲状を相具して舎弟時孝に所領を譲り渡したことを杵築東三郎殿に伝えている。某と舎弟時孝は孝時の弟の子であるが、弟とは孝景であり、某は孝時から譲られた所領を弟に譲ったことを父東三郎孝景に伝えたのである。この時点で前国造清孝が生存している可能性はない。
 これに対して、井上氏は孝景の子孫は向氏であるとの説を提示されている。時孝の子秀孝が向氏であることは確認出来る。ただし、孝景には某や時孝のように兄である国造孝時の所領を譲られた子とともに自らの所領を継承した子がいたはずである。その子が東氏を継承して、戦国期の東氏につながっていくとすべきであろう。孝景の子達は祖父泰孝から未来の国造の可能性を持つものとされており、一期分の国造・神主として父の所領の大半を譲られた孝時がその所領の一部を譲ったのはそのためであろう。
 尼覚日については佐々木貞清の子で高貞の姉であるとされるが、守護佐々木泰清と国造義孝が同世代であるのに対して、泰清の曾孫である覚日が義孝の子泰孝と結婚するというのは可能性としてほとんどなく、覚日は頼泰の子であろう(以前のブログでも述べた)。守護塩冶高貞からすると父貞清の姉妹であった。この場合でも泰孝と覚日には一定以上の年齢差があり、覚日は泰孝の後室で、孝時の母とは別人であろう。泰孝は当座の処置として孝時に国造・神主職を譲ったが、それは覚日の子福得がなお幼少であったための一時的な処置で、その後の継承を覚日に委ねたのであった。
 以上、二〇〇四年の論文では不明確であった点について、論拠に基づく新たな説を論証できたと考える。

東三郎殿御相論1

 暦応四年六月九日、佐草禅光は起請文を作成した。その原因は東三郎殿に御相論が出来し、不審を持たれる可能性があるので、疑いを晴らすためであった。東殿に忠を致し、今の国造に不忠となる事はしないことを誓っている。御内を出るようなことがあってもこの旨を翻すことは無いとしている。
 問題は東三郎とは誰であり、不忠とは何であったのかである。井上寛司氏は国造清孝であり、相論とは国造職をめぐる清孝・孝宗と貞孝方の確執であるとされた。問題は国造自身が東氏と称したり、康永二年六月八日国造清孝知行配分目録で、自らの知行分を「庶子分」とするのはおかしいとの批判を念頭におきつつも、その他の案が考えがたいとの理由で、推定が妥当であるとされた。この内、知行目録については時期(すでに清孝は死亡している)、署名の形式(孝宗への譲状では国造大社神主出雲宿祢清孝としているのに対して国造清孝という署名はおかしい)との理由で、国造をめぐる孝宗と貞孝の相論が開始された後に作成された偽文書であるとの説を提示した。
 そこで本論について考え直してみると、相論とは清孝跡をめぐる対立ではなく、孝時流の清孝・貞孝と東三郎=彦三郎孝景の対立であるとの説が妥当であるとの結論に達した。建武二年一一月二日の譲状の中で国造孝時は、自らの跡を三郎清孝に一期分として譲り、その後はあかこまろ(六郎貞孝)が継承して尼覚日の命に従うべきことを述べている。これに対して一三日後の一五日には孝時は置文を作成し、尼覚日に先立つので、親である泰孝譲状に任せて、国造職や所領については覚日の計らいで、いずれの子孫にでも良いので与えられることを了解している。
 井上氏はこの孝時の譲状と置文には矛盾があるとして、譲状には問題があり、これをもって貞孝が孝時から国造職などを直接相伝した証拠となすことはできないと結論付けられた。これに対して「中世前期出雲大社史の再検討」の中では、譲状と置文はともに正しいもので、そうでなければ清孝が孝宗に国造職を譲ったことに対して貞孝が異論を述べ、それが一定以上の人々の支持を得て、孝宗と貞孝の相論が長期化し、守護による調停が行われることはなかったことを述べた。

2018年4月26日 (木)

尾氏春秋と地震記事2

 天保六年二月一四日四つ時に前代未聞の大地震があり、崖崩れと落石。翌三月一二日夜には落雷が鳴り、二一日七つ時も地震。この月には竹島事件の関係者家老岡田頼母が江戸に召し上げ。六月四日から一三日まで大雨。九月一二日には朝5つの地震など三度の地震。一五日朝4つにも地震。一〇月一五日にも地震。米など総てに物価高騰。老中松平周防守康任は一〇月二九日に退役し、一二月九日に隠居し、家督を譲る。仙石騒動も発覚。
 天保七年二月には市木・井原・雪田・長田で一揆、首謀者は入牢。三月六日夜7つ時に大地震とするが、昨年二月よりやや細いとする。前兆の小さな揺れが明け6つ時に2つあり。七日9つ半にも地震。三月一五日暮6つにも地震が2つ、昨年来地震が多いと記す。四月には藩主松平氏は奥州棚倉へ。六月一二日には益田で大水害。流出物が仁万・宅野でひろわれる。廣嶋でも橋が流され、雲州を含めて大坂以西は大雨。津和野藩では洪水で流された使者が千人以上。盆以降は気温が下がり大寒。竹島事件の関係者が処刑される。今津屋八右衛門は拷問で責め殺される。九月には濱田藩から34ヶ村が天領に移される。一〇月以降は餓死者の記事が続く。その最中の一二月一〇日には地震。
 天保八年が明けても餓死の記事が続く。物価は高騰。行き倒れの記事も。二月一九日には大坂で大塩平八郎の乱。火事の記事も続く。そうした中四月朔日には大霜が降りる。三月二七日には大塩父子が座敷で自害。五月三日には大あられが降る。六月三日から六日までは出羽川筋で前代未聞の大水。物価は高騰。六月になっても餓死の記事。一一月一〇日には将軍宣下があり、大御所家斉は隠居。一〇月一九日には地震。一一月一六~一七日には雪が二三寸降るが、その後は二月のような陽気。一二月一三日4つ時にも地震。
 天保九年が明けても正月一五日朝3つ時に地震。泥棒などの犯罪も跡を絶たず。二月五日には積雪一尺。春に疫病が流行し、浅利村では500人余、温泉津・小浜でも600人余死亡。四月に宗門改めをしたところ1万3千人減少。閏四月五日には大森で仕置きが為される。この年五月には巡検が行われた。正規の統計では死に絶えた家七一六四軒、死者九九六七人。これに村を出た人々が多数いたと思われる。出雲部の場合は西端の海岸部で人口減少が目立ったが、救いを求める人の多くは松江城下へ行った。一二月四日夜大地震。

横田庄と須佐郷

 この二つの所領に共通するのは石清水八幡宮との関係である。横田庄は石清水八幡宮の別宮が勧請された平安末期には八幡宮領となった。治承・寿永の乱で橫田兵衞尉が平家方として一の谷合戦に参加したためその跡は没収され、同族である勝部宿祢一族の三処氏が庄司となった。その後、後鳥羽-実朝の関係の中地頭となったが、承久の乱では生き延びた。一方、須佐郷は鎌倉初期の郷司が国造出雲宿祢の同族の人物であったが、承久の乱後は東国御家人が地頭となった。
 横田庄地頭三処氏は長綱が地頭の時代に横田庄の地頭請を実現したが、長綱が死亡して東国御家人土屋氏出身と思われる後家が地頭となると、年貢の未進が増加し、石清水八幡宮が幕府に度々訴えた。後家はこのピンチを乗り越えるため、六波羅探題となり、伯耆国守護でもあった北条時輔に地頭職を寄進し、自らは地頭代となった。一方、文永八年の須佐郷地頭は相模殿=時輔の弟で連署に就任していた北条時宗であった。
 文永9年2月、時宗は京都の兄時輔を襲わせ、これを殺害した。このため、時輔の母妙音が地頭となったが、実質的には幕府関係者が支配を担っていた。三処後家は横田庄に続いて三処郷を妙音に寄進したと思われるが、石清水八幡宮は地頭による年貢未進の追求をやめず、後任が他人でも納入を求めるが、新地頭は前任の時輔の母であるとして未進の納入は当然だとした。そうした中、地頭代であった三処後家とその息子は解任され、没落してしまった。そして妙音の死後、横田庄地頭職は正和四年には鶴岡八幡宮造営料所、翌年には六波羅探題北方料所に充てられ、文保元年には内裏供御料所として寄進され、西園寺実兼が管理した。
 しかし、元弘三年に鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇が地頭方を庄園領主である石清水八幡宮に寄進したが、間もなく鎌倉末期の内裏供御料所に戻された。これに対して、得宗領であった須佐郷は、建武政権に没収されたと思われるが、どう処理されたかは不明である。そして建武4年12月一二日に足利尊氏によって須佐郷地頭職が石清水八幡宮に寄進された。調度、横田庄地頭職が内裏供御御料所に寄進された埋め合わせのように。
 その後、石清水八幡宮と横田庄の関係をうかがわせる史料は確認できない。明徳の乱の原因となったのは天皇領である横田庄押領であった。これに対して山名時義と満幸は横田庄にどのような権益を有したのであろうか。室町期の横田庄を支配した三沢氏についても同様の質問が投げかけられる。一方、遅れて石清水八幡宮領となった須佐郷の一角は近世においても八幡宮領として続いていく。室町幕府下では須佐郷が石清水八幡宮領となり、横田庄は八幡宮との関係が消滅したのではないか。半済令などの結果、横田庄は天皇家領となり、地頭分を武士が支配し、須佐郷は石清水庄園領主となり、これまた地頭分を武士が支配したのではないか。そう考えないとその後の状況が理解できないので、敢えてこのような解釈を提示した。             

近世後期和木村の人口動向から

 小川斉子氏「近世中後期の浜田範領和木村の人口動態」(山陰研究9、2016)を読んだので、過去の記憶を思い出しつつ述べてみたい。その概要には「社会増加が人口増加に与えた影響は極めて小さく、自然増加によって高い人口増加がもたらされていたことが明らかになった」とあり、首をかしげてしまった。
 読んでみると、データに基づく分析であることは理解できたが、実際の状況の間にはギャップがあるのではないか。人口が増加した地域は海岸部が多く、その背景に漁業・製塩業の発達、食糧の生産増もあるだろうが、最大のものは水運中心の流通業の発展であろう。過去に作成した「近世島根県域における人口変動について」を読み直して確認したが、ギャップの原因は一時的な出稼ぎ者が宗門改帳に反映されないからであろう。出稼ぎ者は依然として本来居住した村の改帳に載っているのである。流通量の増加に自然増で対応できるわけはないのである。継続した仕事の増加は自然増をもたらす(出稼ぎ者が婿入りするケースも多くはないがあったであろう)が、実際の増加は宗門改帳に記されたものよりはるかに多かったと思われる。そういった人々を収容する宿泊施設も増加したであろうが、現在でも原発関連工事の宿泊者は原発が所在する町の人口にはカウントされない。
 ということで、とりあえず、人口問題の研究者には、そのような史料の発掘を期待したい。論文そのものは誤りではないが、実態は違っていた可能性が大である。無断で出奔し帳外になった人々(無宿者)も統計には含まれない。今回の論文は史料の残存により、最も人口が増加した天保の飢饉から幕末までがぽっかりと穴があいており、この時期の分析も必要である。海岸部以外でも流通に依存する割合の高い地域は人口が増加しているであろう。同様の問題は、松江藩の財政を詳細に記した「出入捷覧」についても述べたことがある。木下氏の史料でも貧困対策費について捷覧に言及されていたが、これに記されない特別会計(特に支出)については不明であり、これも史料発掘が望まれる。

 個々の点について言及すると、まずは和木村の1760年代の人口増(年平均増加率2.16)が目につく。粗出生率は4.44と最も高く、死亡率も1.63は低い方である。この時期のデータは管見の範囲ではあまりないが、迩摩郡大国村では1761年の1764人が1770年には1829人であり、ここまで増加してはいない(年平均増加率0.33)。福光下村も同様である。邑智郡矢上村では1762年の2092人が1770年には2717人で、年平均増加率は2.90と和木村よりさらに高い。和木村が属する跡市組の中心である跡市村は1750年1377人、1756年1421人、1770年1524人と年平均増加率はそれぞれ0.50と0.52である。今回史料の不足からデータが載せられなかった(単行本版がPDFで公開されているが、そこには表があり)和木村の天保の飢饉以後を計算すると、1842年1080人、1851年1300人、1868年1530人であり、年平均増加率はそれぞれ2.06と0.96となり、飢饉直後の増加率は1760年代に匹敵している。実際の増加は出稼ぎ者を加えるとはるかに多かったと思われる。それゆえに、飢饉が起きると深刻な打撃をうけたのである。村高や個人の持高も現実とは乖離しており、それを踏まえた分析が求められたが、人口についても同様である。実際の増加、減少はもっと激しかったのではないか。「社会増加の影響はほとんどない」とはマルサスの人口論と同様一面における真実でしかないのである。是非ともその地域で人口が増加した具体的要因を分析していただきたい。

2018年4月23日 (月)

正殿式と仮殿式4

 文永一二年と翌建治元年に領家が国造義孝を神主に補任した下文にみられた阿式社に準じた造営と、国造が所持する旧記に基づく造営については、文永七年正月の本殿焼失後の問題ではなく、宝治二年遷宮の本殿を造営する際に生じた問題であったことを明らかにした。宝治の本殿造営が当初は史料がないとの理由で阿式社に準じて行うことにされ、それをになっていたのは神主出雲真高であったが、国造政孝が旧記を所持することを明らかにした上で神主補任の請文を提出したため、最終的には前例に準じた造営が行われたことがわかる。
 以前、広島大学三浦正幸教授とメールで遣り取りした際に、三浦氏は八丈方六間という正殿式は寛文年間の造営時に国造家によってねつ造されたもの(先例ではなくその時点で定めた物)と言われたが、前例に基づくものと考えるのが妥当ではないか。それが中世最後の巨大神殿を造営をうけた宝治二年の正殿遷宮ではなかったか。細部の違いはあろうが、この先例に基づき寛文の正殿遷宮が行われたのではないか。国衙・杵築社政所・国造家に規模についての記録は全くないとは考えられず、それがあるので、各時代の政治権力に正式な規模の造営を求めてきたのではないか。それがながらく実現しなかったために、はくをつけて三二丈、一六丈という空想的規模の神殿があったとの伝承が形成されたのであろう。
 前述のように、宝治の遷宮関係史料を写した北島家譜では、大社町史の掲載部分(二四一号史料)の前にそれが宝治の造営のものであることが明記され、大日本史料では正確に引用されている。町史でその部分がなぜ省略されたかは不明である。家譜も書き継がれる過程で原文書の修正(建長元年の注進状では目代源右衛門入道宝蓮について、仏教的要素をである「入道宝蓮」の部分が消され、北島家譜でもその部分が不自然な形の空白となっている)に伴って修正された可能性があり、北島家譜の記載内容の検討も必要であるが、現時点での見解を述べた。建築史研究者の見解について、とりあえず『出雲大社境内遺跡』(二〇〇四)と『出雲大社の建築考古学』(二〇一〇)で確認したが、様々な根拠に基づき様々な説が述べられており、現在の自分は建築史の専門家のレベルからどの説を支持するところまでは至っていない。発掘された遺構は現時点では宝治二年遷宮の本殿である可能性が高いのではないかというぐらいである。いずれにせよ文献史学のこれまでの研究、さらには現時点の研究が不十分であったことが無用な混乱を生んだ原因であったことは間違いなく、それをどこまで確認できるのかということですべて明白な根拠を示してブログの記事を書いている。現在は「中世前期出雲大社史の再検討」(二〇〇四)の最新バージョン(二〇一八版)を発表する準備をしている。

正殿式と仮殿式3

 正殿造営開始から遷宮までの期間についても確認すると、治暦三年(一〇六七)二月一日の正殿遷宮は康平五年(一〇六二)に正殿造営が開始されており、4年半程度である。天永三年(一一一二)六月の正殿遷宮は、天仁元年(一一〇八)一〇月に杣山に入り採木がされたことで始まったが、必要な材木の確保で中断し、天仁三年(一一一〇)七月に因幡国から材木を提供されたことで本格化した。採木開始からは四年弱、材木確保からは二年である。この造営について康治二年の官宣旨では三ヶ年で造畢と述べている。それが、旧記の写し間違いに気づかず、永久二年(一一一四)六月に正殿遷宮が行われたとの誤った解釈がなされていた。この場合だと材木提供から四年となり、明らかに官宣旨と矛盾するにもかかわらず疑問を持つこともなく放置されてきたのである。康治二年の官宣旨からは天仁三年に造営の官宣旨が出たことも確認出来る。
 久安元年(一一四五)一一月二六日に遷宮が完了した事例では、康平元年(一一四二)一一月の仮殿遷宮完了直後の一二月から採木が開始されるが、実際は翌年正月に木作始日神事が行われ、七月二五日に三前山からの採木の神願が行われた後の二八日から入山・採木が開始された。この日から遷宮終了までの期間は二年半弱である。他国から材木の提供を受けたかどうかは不明であるが、前回の寄木に際して記された神のお告げとは、出雲国内での材木確保が困難なため、他国からの提供を定め、そのトップバッターが因幡国であったことを示すものであろう。造営がスムーズの行われている事から、他国から材木が提供された可能性が大きい。
 建久元年の遷宮については、翌年七月の出雲国在庁官人等解では去年六月二九日とするのに対して、承久二年に杵築社政所が報告した文書では一〇月一八日と記している。両方の史料的価値に基づけば、後者が正しいと思われる。建久元年正月の時点で、神主内蔵資忠が幕府を訪れていることが、後白河院サイドの批判を受け、資忠が急遽出雲国に帰っている。この後、神主が遷宮を前に国造孝綱に交代した可能性も高く、六月二九日の時点で遷宮を終了するのは困難な状況にあった。解状作成のわずか一年前の事ではないかとの意見があろうが、解状は政治的文書であり、そこに記された内容は他の史料で検証しないと使うことはできない。旧記の末尾には文治六年に覆勘宣旨が出されたことと、建久元年への改元(四月一一日)のみを記している。天永三年六月の遷宮では前年一〇月二二日付で覆勘使が派遣されている。久安元年一一月の遷宮では、一〇月四日に覆勘宣旨が出されている(ただしこの年は閏一〇月あり)。覆勘宣旨の時期のみではいずれか決める根拠に欠ける。

正殿式と仮殿式2

 安元元年の仮殿遷宮が誤りであり、実際には治承二年一一月に仮殿遷宮が行われたことは前述の通り。承安四年の除目で後白河院の側近藤原能盛が出雲守に補任され院分国となったのに押し出される形で、藤原朝方・朝定父子は石見国司へ遷任した。三年後の治承元年正月に後白河院の分国が周防国に替わった関係で、朝方・朝定父子が出雲国司に復帰した。この朝経が養和元年に出雲国司を重任したのは治承二年一一月の杵築社の仮殿遷宮を経て正殿造営が開始されたためであったが、朝経は寿永二年に死亡したため、藤原清長が急場をしのぐ形で短期間出雲守を務めた後に、朝方の子朝経が出雲守に補任され、正殿造営が続いた。いずれにせよ、仮殿造営はこれも短期間で終了したと思われる。
 治暦三年の正殿遷宮に関しては康平五年四月二二日に仮殿遷宮が行われた。これをうけて康平五年中に正殿造営に関する宣旨が出されたことは康治二年三月一九日官宣旨によりわかるが、仮殿造営に要した期間は不明である。
 嘉禄三年七月の仮殿造営については嘉禄二年三月一九日の木作始日神事次第から開始されているが、実際の作業は一〇月二日御材木引進人夫徴下事から本格化し、翌年七月の遷宮で終了している。嘉禄二年八月までは神主による権神主出雲真高への圧迫が続き、真高の訴えを受けて領家藤原家隆が神主(国造孝綱が弟政孝)を一旦は更迭し、嘉禄二年七月に請文を提出した政孝が領家から神主に補任された可能性が大きい。国造政孝は本家承明門院(土御門院の母)に訴えて、神主に補任することを命じた承明門院御教書が出されているが、補任権は領家家隆が有しており、その効果については不明である。仮殿造営が本格化するのが一〇月からとなったのもそのためであろう。実質的造営期間は九ヶ月弱である。
 以上、仮殿造営に必要な期間をみたが、準備を除いた狭義の造営は一月程度で終了するものであり、最低三~四年は必要な正殿造営とはまったくの別物である。仮殿は三~四年前後の使用に対して、正殿は三〇年前後の使用に耐えるだけの物でなければならなかった。当然、仮殿と正殿の規模に関しては前回の記録に基づき決定されるため、基準があったことは間違いない。

正殿式と仮殿式1

 この問題については、山岸常人氏の論文を通じて松岡高弘・土田充義氏「出雲大社における仮殿造について」(①)を知った。そこでは仮殿造・正殿造という用語は承応二年(一六五三)が初見で、正殿式・仮殿式は寛文八年が初見だとし、中世にみられる正殿・仮殿とは意味が違うとされた。これをうけて井上寛司氏は「文献資料から見た宝治2年の杵築大社造営」(②、『出雲大社境内遺跡』)の中で、正殿を高さ8丈・六間四方との理解は近世に生まれたもので、それ以前には合致しないとされた。『懐橘談』では七丈以上を正殿造としているのが根拠であろうが、そうすると、戦国期末に主張された本殿の高さが「三二丈→一六丈→八丈→四丈五尺」との関係が問題となる。もとよりこの主張は事実ではないが、戦国末には存在した。それを記した「杵築大社旧記御遷宮次第」(③)は鰐淵寺が残したものだが、杵築大社と共有する情報(本来は大社側が作成したもの)を記している。過去の遷宮を記した部分は弘安四年三月日国造義孝申状(④)作成時にまとめられたものを追記したものである。
 ①はなお杵築大社文書の個々の内容がきちんと理解されていない時点の文献史学の成果に基づき書かれており、中世の「正殿造」「仮殿造」についての情報は混乱している。なにより、個々の仮殿造営と正殿造営がいつ行われたかについて、徹底的な史料批判が必要である。④は極めて政治的内容に満ちた史料であり、そこに記された情報は他の史料で確認することなしには使えないものである。
 仮殿造営に要する期間について、井上氏は②の中で、康治元年一一月の遷宮は顛倒から約1年半後、安元元年一一月の仮殿遷宮は顛倒の約三年後、嘉禄三年七月の仮殿遷宮は顛倒から1年半後と述べている。ただし、康治の遷宮は急な顛倒により仮の仮殿とでもいうべき竈殿を造営し、竈殿への遷宮と顛倒の実検を行った後に仮殿造営が開始されている。 
 天仁元年一一月九日の仮殿遷宮の場合は同年三月二三日の出雲守藤原顕頼による解状から始まり、一〇月三日にこれを許可する宣旨出され、八日から杣山に入り採木が始まっている。実質的造営は一月程度である。康治元年の遷宮の場合は、顛倒の実検使が保延七年一一月一九日帰府し、康治元年一〇月一四日に許可する宣旨が出され、一一月二一日に遷宮が行われている。この場合も実質的に造営に要した期間は一月程度である。

2018年4月22日 (日)

史料の保管元6

 結果的には本殿造営は国造義孝の所持する文書に基づき目代が行え、さらには国造義孝とともに行えとの命令が出され、国造義孝が神主に復帰し、この後は領家の交代により実政が神主に補任されることはあったが、国造が幕府に訴え、幕府がその訴えを認めたことで、神主の確保に成功した。文永一二年正月に神主に復帰すると、国造側は嘉禄二年の仮殿遷宮と宝治二年の正殿遷宮の関係史料目録を四月に提出している。その名称をみると国衙が保管すべきものと思われるが、実際は杵築社政所に残されており、実際には長期間神主を保持した国造義孝が所持していた。義孝に対抗する目代氏定が拠点とする国衙(留守所)や政所そのものには残っていなかったため、義孝に代わって神主となった実政側はどうにもならなかった。
 以上、治暦三年に国司が杵築社に所領を寄進して以降は、国衙内の杵築社政所に造営史料が保管されており、杵築社領の立券後は国衙とは独立した杵築社政所に保管された。ところが、承久の乱で国衙の有力在庁官人とともに神主中原孝高が没落したがことで、政所の史料も散逸し、残るは建久二年の裁判のため作成され、国造が所持する旧記のみとなった。承久の乱後は政所に史料が保管されていたが、国造がながらく神主を務める中、関係史料は国造側が保持し、後任の神主はそれを活用することはできなかった。それは国衙目代も同様であり、そのため、国造義孝・泰孝父子が神主を独占することに成功し、泰孝以降は譲状の中に造営関係史料が記載されることになった。

史料の保管元5

 ただし、天福元年(一二三三)には神主真高が刃傷の狼藉を働いたとして、領家は内蔵孝元を神主に補任した。『吾妻鏡』にその記事が収録されていることから、幕府と領家の間で話し合われた結果であったと思われる。ただし孝元の神主在任期間は短く、二年後の文暦二年六月八日に領家某(家隆とされてきたが、花押から別人とすべき。雅隆の子重隆ヵ)が神主に対して造営文書(旧記)を披見して年内に棟上げを行うことを命じているが、旧記を保持する国造義孝の拒否により進展の見通しがなく、九月には真高を更迭した新たに国造義孝を神主に補任している。従来は領家家隆がこの二年後に八〇才で死亡したとされていたが、重隆も後継者がないまま、寛元三年(一二四六)に死亡している。造営が進む一方で領家の体制は安定せず、これにより結果的に国造義孝が安定的に神主に補任され続けたと思われる。そして宝治元年(一二四七)一〇月日杵築大社神官等申状にみられるように、惣検校のみならず権検校も「孝」の字から国造家関係者であることがわかる出雲兼孝が務めている。これにともない権検校であった真高関係文書も入手したのだろう。また造営が進む中、暦仁二年には二度の関東御教書が出され、地頭に対して無足御材木と桧皮を負担することが命ぜられているように」、幕府・守護との協力体制も構築された。弘長二年(一二六二)一二月三日に国造義孝は国造と惣検校を重代相伝だとして嫡子泰孝に譲っているが、国造の譲状として確かなものはこれ以降のもので、これ以前のものはすべてに要検討=記された年紀以後に作成されたものである。
 文永七年(一二七〇)正月に杵築社で火災があり、神体こそ被害を免れたが本殿が焼失した。これにより予定より約一〇年早く、次の造営に取り組むこととなった。領家松殿兼嗣は国造泰孝に代えて出雲実高の子実政を神主に起用したが、国造側は義孝が復帰するとともに国司や幕府と結んで対抗した。幕府と国造の関係を示すのが建長元年一一月二九日将軍袖判下文であり、その発給に守護佐々木泰清が関与した。承元二年九月六日の御下文に任せてのものであったが、前回は後鳥羽院と将軍実朝の緊密な関係を背景とするものであったが、今回は守護泰清が重要な役割を果たした。泰清は六波羅探題評定衆を務める有力守護で、出雲国に下向して遷宮の儀式にも関わっていた。出雲国では承久の乱以降、義清-泰清-時清・頼泰-貞清-高貞と佐々木氏が守護を相伝しており、守護の果たす役割が大きかった。義孝の花押が当初のものから変化し、泰清の花押と類似したものになったことも、守護との関係を示している。義孝の子は泰清の一字を許され泰孝と名乗っている。

史料の保管元4

 承久の乱で出雲国衙の有力在庁官人のほとんどは没落した可能性が大きい。勝部宿祢に次ぐ地位を占めていた中原朝臣も同様であった。これに対して、杵築社領は後鳥羽院から土御門院へ譲られていたため、受けた影響は最小限であったと思われる。国造の最大のライバルであった中原孝高は没落し、孝綱の弟政孝が神主に補任されたが、権検校は出雲頼孝の子真高が継承した。領家藤原雅隆が貞応三年(一二二四)に死亡し、雅隆の娘を室としていた弟家隆が継承した。
 承久の乱後、持明院家行が知行国主になり、そのもとで嘉禄元年正月には出雲国守護佐々木義清が出雲守に補任された。家行の父基宗は源頼朝と関係が深い上西門院の女房因幡を母とし、基宗と上西門院女房帥局を室との間に生まれたのが家行であった。基宗の従兄弟一条能保は頼朝の妹坊門姫を室としていたが、坊門姫は兄頼朝から得た所領をその子に残している。家行の子家定は幕府の重臣二階堂基行の娘を室とし、その間に生まれた基盛は関東に祗候し将軍頼経の側近となっている。また家行の娘は頼経の室となっている。
 この家行が嘉禄二年二月に五二才で死亡し、二条定輔が知行国主となったが、家行より一二才年長であることもあり、翌三年七月に六五才で死亡した。その後任の知行国主は藤原光隆の娘を母とする平有親(一一九四~一二六一)であった。杵築社の領家である家隆の甥にあたる。有親は杵築社正殿遷宮とその後処理が終わる建長元年まで知行国主であったが、建長三年の知行国主であることが確認できる嫡子時継がその跡を継承した。時継は文永元年一〇月まで知行国主であったが、父有時とともに不遇であった時代の後深草上皇を支える廷臣であった。
 政孝は権検校真高の訴えを受けた領家により一旦更迭されたと思われるが、本家承明門院に神殿造営と相伝をアピールして神主を安堵され、領家からも再補任されたとおもわれる。領家家隆の娘が土御門院とその母承明門院に仕えており、承明門院の意向は効力を有していた。ただ復帰後の政孝は依然として所領面で権検校真高を圧迫した。これに対して領家家隆は真高への圧力を禁止し、真高を度々安堵した。
 嘉禄二年(一二二六)には杵築社本殿造営が問題となったが、前神主中原孝高の没落により、杵築社政所に保管されていた造営関係史料の多くは散逸し、国造家が建久二年解状を提出する際に作成した旧記が重要な意味を持つようになった。旧記を保持することが政孝が神主に補任・再補任された背景となったが、嘉禄三年に仮殿遷宮が終わり、正殿造営が進行する中、領家は権検校であった出雲真高を神主に補任した。元仁元年(一二二四)に領家を兄雅隆から継承した家隆が杵築社領の状況を把握すると、主導権を発揮したのであろう。国造政孝が死亡し、その子義孝に交代したことも影響したと思われる。

史料の保管元3

 ところが朝方と政綱に対して頼朝は、奥州藤原氏のもとに逃れていた義経と結んでいるとの疑惑を抱き、後白河院に対して両人の解任を求め実現したが、実際の標的は政綱であり、その幕府への引き渡しを確認すると、朝方は杵築社造営も行ってきたとして知行国主復帰を認めた。ただ、目代政綱の解任は協力して造営を担ってきた資忠の立場を弱めた。資忠は鎌倉へ二度も下って立場の強化を図るが、かえって杵築社の最高責任者が二度も留守にするのは問題との批判をあびた。また、隠岐国在庁との一面を持つ資忠に対しては、隠岐で国務に従事せよとの批判も出された。この結果、造営が完成したこともあって資忠は神主を更迭され、御神体を抱懐する国造孝房が神主に補任された可能性が高い。
 ただし、遷宮が終わると、資忠が神主に復帰したため、国造孝房は出雲国在庁官人を巻き込んで本家である後白河院に訴えたが、決定権を持つ領家は資忠を神主に補任し、頼朝もそれを安堵する下文を与えた。
 状況が変わったのは資忠の死であると考える。このため国造孝房の嫡子孝綱が神主に補任されたが、領家は孝綱を牽制するため、神主の権限を分割した権検校を新設し、資忠の子孝元を補任した。幕府も孝元を出雲国内数ヵ所の地頭に補任したが、これが可能であったのは、後鳥羽院と将軍実朝の関係であり、知行国主が後鳥羽の側近源有雅だからであった。国造孝綱もまた幕府から国造領である大庭・田尻保の地頭に補任された。
 このような関係は孝元と孝綱の対立により短期間で崩壊した。孝元には権検校としての神供を務めない問題があり、孝綱は国衙・幕府に訴えることで、孝元の排除を図った。ただし、権検校補任権を持つ領家の意向を無視したため、領家は権検校孝元だけでなく、神主孝綱も更迭した。新たに神主に補任されたのは国衙の有力在庁官人中原頼辰と国造家出身の女性の間に生まれた中原孝高、権検校には出雲宿祢一族の頼孝が起用された。これに対して国造孝綱は国司と本家土御門院と結んで対抗したが、領家はそれに従わず、中原孝高-出雲頼孝の体制が承久の乱まで続いたと思われる。
 建暦三年八月二一日に領家藤原雅隆(光隆の嫡子)が、杵築神主に対して杵築社領の知行を安堵しているが、出西郷・出西富・高墓(浜)・石墓(塚)村と稲岡郷は別納の地なので、それ以外を知行せよと安堵している。出西郷(或いは富も)が宗孝の一族が開発した所領であったことはすでに述べた通りである。高浜・石塚・稲岡も有力在庁官人が開発し寄進した所領であったであろう。

史料の保管元2

 久安年間末に崇徳院領杵築社が成立すると、国衙の下から政所が完全に独立し、そのトップが神主(惣検校)であった。それが保元の乱で崇徳院が敗北して配流されたことで、庄園から公領に戻された。次いで国造兼忠と出雲国衙在庁官人が共同して、後白河院への再寄進が行われ、兼忠が神主に補任された。ただし、神主は年度毎に請文を提出した人々の中から領家藤原光隆が補任しており、国造が安定的に神主を確保していたわけではなく、他者が神主に補任されることは珍しくなかった。
 これに対して国造は出雲守が補任するもので、出雲宿祢一族の特定のグループが補任されていたが、兼忠が死亡すると、本来の惣領家である兼経が国造に補任された。国造頼兼の嫡子宗房が国造となったが一年で死亡し、その子兼家が幼少であったため、弟兼宗が国造となり、その跡も兼宗の嫡子兼忠が継承した。前述のように兼忠は初の国造兼神主となった。これに対して兼家の子と思われる兼経が国造補任を求め、兼忠の死後実現したのであろう。
 そうした中で出雲宿祢一族で出西郷開発の中心となった出雲宗孝が神主に補任された。次いで兼経が補任後一〇年で死亡すると、宗孝は国造の地位も手に入れ、兼忠以来二人目の国造兼神主となった。ただし、神主は領家が決定するものであり、元暦二年四月日宗孝譲状で惣検校職を嫡男孝房に譲っているが、これは後に作成されたものである。国造の地位にしても一族内に補任を求める人物がおり、相続できるものではなかった。
 鎌倉幕府の成立は平家方の武士が少なからずいた出雲国に大きな影響を与えた。一の谷合戦に参陣した関係者は庄司・郷司・在庁官人の地位を失い、その一族が継承を認められた場合もあったが、庄司・郷司跡に東国御家人が地頭に補任される場合もあった。そうした中、頼朝は自らが伊豆に配流された時期に大功のあった内蔵資忠を杵築社神主に推薦し、領家藤原光隆は国造孝房に代えて資忠を神主に補任した。戦乱の時代が終わり、杵築社正殿造営が本格化するこの時期に幕府の支持を背景とする資忠が補任されたのである。内蔵氏は隠岐国衙と出雲国衙に忠光以来の勢力を維持していたと思われる。頼朝と光隆はいずれも待賢門院(崇徳・後白河・上西門院)系と深いつながりを持っており、それが頼朝の要望に光隆が応じた原因であった。一方では、出雲国知行国主藤原朝方の目代として東国御家人兵衞尉政綱が補任されているのも同様の背景を持っていた。造営は神主資忠と目代政綱が協力する形で進行していた。

 

史料の保管元1

 なぜ、治暦三年の正遷宮史料以降のものしか残っていないことを含めて、表題の問題について確認したい。
 最初に建久二年七月日の在庁官人解とともに、造営史料からピックアップして写した「治暦・天永旧記」が作成された。国衙に保管されていたものから在庁官人が写して作成したとの意見もあろうが、すでに述べたように解状も国造側が作成し、在庁官人は署判を加えたのみであるように、旧記も国造側が作成した。保管元は国衙ではなく、杵築社政所である。遷宮直前に短期間ではあるが、国造孝房がひさし振りに神主に補任されたことにより、政所に保管されていた史料を閲覧することができたのである。旧記は最後に文治六年に勘宣旨が下されたことを記しており、この時期に作成されたものであった。ただし、内蔵資忠が中心として行った造営であるがために、建久元年の遷宮に至る史料は意図的に写さなかった。
 ではなぜ在庁官人は国造を支持したかといえば、本来内蔵氏は出雲宿祢の中で隠岐国衙を中心拠点とする一族で、隠岐守藤原資憲とその父日野実光、藤原光隆とその父清隆と結ぶことで、出雲国における勢力を拡大し、久安年間末には内蔵忠光が中心となって杵築社領の崇徳院への寄進を実現し、忠光が初代神主に補任されたのである。出雲国衙の有力在庁官人からすれば出し抜かれたとの思いはあったであろう。「内蔵」とは国衙の正倉の管理を行うことからきた苗字だと思われる。後に内蔵資忠の子孝元が国富郷地頭に補任されたのは国富郷司であったためであった。本領であるが故に、孝元解任後の地頭も内蔵氏であった。
 承久二年三月八日杵築社遷宮年限例注進状も、杵築社造営を求める声が強まる中、国衙が杵築社政所に対して報告を求めたことをうけて作成されたものである。原則として造営史料は国衙ではなく政所が保管していたのである。ではその政所の成立はいつかというと、治暦三年の遷宮時に出雲守藤原章俊により内遙勘が社領として寄進されたことを契機に杵築社は国衙財政の中で特別会計となり、独立性の高い政所が設けられたのである。旧記が康平五年以降しか記さないのは、前の部分が失われたからではない。
 この政所に対して国造は一宮である杵築社の祭祀を担当する職であり、政所には関わらない(ないしは政所の下に置かれたもの)。国造は意宇郡司から西遷してきたが、国衙機構が整備される中、その地位は低下していた。その一方で、出雲宿祢一族も勝部宿祢一族に次ぐ勢力を出雲国衙で占めていた。内蔵氏もその一族であった。治暦三年に政所が設けられ、造営も担当するので、関係史料は政所が保管するようになった。国造はその史料を所持してはいないのである。

杵築社本殿焼失と神主3

 翌建治二年二月にも重ねて領家兼嗣が国造義孝を惣検校に補任しているが、その下文には義孝補任の背景がより詳細に述べられている。実高・実政父子が阿式社の寸法に基づき造営を行うべしとの院宣が出されたことを主張したのに対して、義孝はそれでは前回の造営は進まず、造営文書を所持していた父政孝が神主に補任されて初めて造営が行われたことを主張した。実際に残っている文書をみると、嘉禄二年七月に領家が政孝を補任した下文には、提出された請文に基づき補任したので神事と年貢など所役を勤仕せよとしか述べられていない。これに対して文暦二年九月に義孝を神主に補任した下文では相違無く造営を行うよう述べられており、義孝の主張にも脚色が加えられている。
 以上のように、本殿の焼失と国造義孝から泰孝への代替わりのすきを突く形で実高・実政父子が神主に補任されたが、造営が進まないため、泰孝ではなく父義孝が復帰する形で国造が神主に復帰した。義孝は弘安四年には造営は国造兼神主が行ってきたとの申状を作成した。ただし、造営は順調となったとはいいがたく、仮殿遷宮が弘安一〇年頃になってようやく行われた。一方、出雲実政は杵築社領の本家が交代したことにともない、領家も松殿兼嗣から某御房や廊御方に代わったことで、再度神主に補任された。これに対して国造泰孝が幕府に訴え勝訴したが、実政は越訴し、それにも敗れると今度は領家のもとで預所に補任されることで、神主である国造泰孝を圧迫し、泰孝がこれを訴える形となったことは前述の通りである。

杵築社本殿焼失と神主2

 後嵯峨院の死亡を挟んで、幕府は文永一一年六月一五日と一一月二八日にも六波羅御教書で領家に対して神主に関する口入を行っている。そして、一二月一五日には二年前に国司が独自に付け加えた、国造義孝と共に造営の功を行えとの亀山上皇院宣が出された。この圧力と神主真高による造営が遅れていることにより、領家兼嗣は文永一二年正月には国造義孝を惣検校に補任した。そこでは前国司沙汰の時に杵築社の境外神社である阿式社の寸法により移造すべしとの院宣が出されたのに、現在の国司により義孝所持の日記文書に召し出して、それに基づき造営せよとの命令が出されたため、文書違乱により造営が遅れ、すでに焼失から五年が過ぎてしまったことを神主交代の理由としている。
 文永七年の焼失時と文永九年一二月の院宣で義孝所持の記録に基づき目代に沙汰が命令された時点の出雲守は藤原顕家、知行国主は四条隆親、分国主は後深草上皇で変化はなく、前国司の沙汰とは出雲実高が以前神主であった天福~文暦年間の時のことである。実際には造営が進まなかったため、国造義孝を神主に補任して造営・遷宮が完了したが、領家兼嗣はその点は不案内であった。ところが義孝所持の文書に基づき造営せよとの院宣が出され、義孝は文書の提出を拒否したため、領家も神主の交代を行わざるを得なかった。これをうけて神主に復帰した国造義孝は文永一二年(一二七五)四月に所持する仮殿と正殿の造営目録を提出した。

杵築社本殿焼失と神主1

 文永七年正月に杵築社本殿が焼失し、仮殿ならびに正殿の造営が必要となる中、天福~文暦年間に杵築社神主に補任された出雲実(真)高の子実政が領家に請文を提出して神主に補任された。国造家では真高による造営が進まない中、文暦二年(一二三五)九月に義孝が神主に補任され、宝治二年(一二四八)の正殿遷宮を行った。この時期は寛喜元年(一二二九)頃に領家が公卿である藤原家隆から兄雅隆の子重隆に交代し、その重隆も公卿になる前の寛元三年(一二四五)に死亡したことで、領家の主体的権限の行使はみられなかった。そのため義孝はその後も引き続き神主の地位にあり、弘長二年(一二六二)一二月三日には国造と惣検校(神主)を嫡子泰孝に譲り、文永五年(一二六八)正月には国造泰孝が領家松殿兼嗣から神主に補任された。
 松殿兼嗣は延応元年(一二三九)に大納言である父松殿忠房と杵築社領家藤原重隆の娘の間に生まれ、弘長元年に二三才で従三位に除せられ公卿となったが非参議であり、参議に補任されたのは三一才である文永六年であった。参議補任も兼嗣が領家としての主体的権限行使を促した可能性が高い。そうした際に、出雲実政から請文が提出されたことで、兼嗣は国造泰孝に代えて実政を神主に起用した。この実政の動きは単独では無く、国衙目代高階氏定、在国司代長田政(昌)元らと結んだものであった。
 目代高階氏定は宝治二年の遷宮が一段し、知行国主が平有親からその子時継に交代し、そのもとで同姓の高階兼重が出雲守に補任された際に、目代に起用されたと考える。前任の源右衛門入道宝蓮も承久の乱後間もない時期から建長元年に遷宮の報告書を提出するまで目代を務めていた。在国司代長田政元は勝部宿祢一族の惣領である在国司朝山昌綱が文永四年に京都で死亡したことと、その子時綱が十分な年齢に達していなかったため、その補佐を行っていた。
 これに対して国造泰孝とその父義孝は幕府に働きかけ、神主への復帰を目指した。文永七年一一月一六日に神主について口入する関東御教書が領家に対して出されたのはそのためであったが、兼嗣は方針を変えなかった。ただ、実政に領家に対する不忠があったとして、過去に神主に補任されていた父実高を神主に起用した。そこで国造は国司・知行国主に働きかけ、国造義孝が所持する旧記に任せて造営を行うことを命じた院宣が出され、これを受けた国司庁宣が文永九年一二月に出された。そしてこれを目代に伝える一二月一七日国宣では、それに加えて、この上は国造義孝と相共に仮殿の造営と遷宮を遂げよとの命令を加えた。一方では国造義孝が目代氏定と在国司代政元の狼藉を訴え、これに対して文永九年四月には幕府が六波羅探題に調査を命じている。鰐淵寺もこれに呼応して目代と在国司が関東御下知と号して三月会の布施を減らしたことの撤回を求める申状を出雲国守護に提出している。

松殿兼嗣の母

 杵築社領家松殿兼嗣の母については、尊卑分脈が藤原雅隆女子とするのに対して、公卿補任(弘長元年)では故前上総介藤原重隆女子とする。井上寛司氏は前者を採用され、光隆の子である雅隆と家隆が相次いで杵築社領家を務め、家隆の死後は雅隆の子で松殿忠房の室となった女性、ないしは忠房が領家となったのではないかとされた。公卿補任が記している重隆は光隆の子雅隆の子である。
 松殿兼嗣は延応元年(一二三九)の生まれであり、久安三年(一一四七)生の雅隆を祖父とするとその生年には九二年もの差があることになり、雅隆女子説は物理的に成り立たない。また尊卑分脈では雅隆には藤原家隆の室となった女性と、松殿忠房の室となった女性が記されるが、雅隆は久安三年(一一四七)生に対して家隆は保元三年(一一五八)生、忠房は建久四年(一一九三)生である。雅隆とその娘婿忠房の年齢差が四六というのは開きすぎである。尊卑分脈には混乱がみられ、これを採用することはできない。忠房室は公卿補任の記すように重隆の娘である。
 重隆は承元元年(一二〇七)四月の時点で「上総介重隆」(上総は親王任国で、実質的には上総守)とみえ、建暦二年(一二一二)二月日後鳥羽院庁下文には前上総守藤原朝臣として署判を加えている。その花押は嘉禄年間の杵築社領家の花押とは異なり、家隆(杵築社関係文書を除けば花押は確認できない)が雅隆に続いて領家となったことは確実である。ただし、寛喜元年七月の領家の花押は家隆よりも重隆の花押に似ている。文暦二年の領家の花押は家隆・重隆のいずれとも違うようにみえるが、寛喜元年の花押を踏まえると、重隆の花押が変化したものともみられる。
 重隆は承久の乱を間に挟んで、天福元年正月二四日の除目で弾正少弼に補任されるが、同年一二月一五日には「従四位下藤重隆止弼」とある。仁治三年四月に従四位上、寛元三年五月一八日に上総前司重隆とみえ、同年九月八日に前上総介重隆死去とある。公卿(参議ないしは従三位)目前であった。
 雅隆が死亡した貞応三年(一二二四)の時点では三〇才は越えていたことは確実で、重隆ではなく家隆が杵築社領家を継承したのは承久の乱との関わりで、重隆の出世が遅れ、公卿にならなかったからであろうか。雅隆には僧となった一名を除き重隆を含む五名の男子がいたことが確認されるが、公卿に進んだものはいない。また、家隆が死亡した嘉禎三年(一二三七)でも重隆が健在であるにも関わらず、松殿忠房(元仁元年大納言補任、寛喜三年に辞任し前大納言)の室となった重隆の娘に領家の地位を譲ったとするよりも、家隆から兄雅隆の子重隆に領家が交代し、重隆の死によりその娘が継承したとした方が可能性は高いのではないか。確かに家隆は建久九年正月から建永元年正月まで父光隆のもとで上総守(実際には上総介)を務めているが、従二位公卿まで進んでおり、「かつさのかうの殿」と呼ばれる可能性は低いのではないか。建永元年正月からは雅隆が上総国知行国主となり、国守(実際には介)はその子仲隆であったが、承元元年四月に補任され、承元三年八月の時点でも上総守(実際には介)現任が確認できる「重隆」こそ雅隆の子藤原重隆に他ならない。「かつさのかう殿」=重隆であろう。
注記 最初に「尊卑文脈が光隆女子」としていたのは誤りで「雅隆女子」に訂正。

2018年4月20日 (金)

嘉禎元年の顛倒2

 仮殿造営に関連して顛倒した記事があるが、弘安四年の国造義孝申状に基づき追記・要約した後の史料にある嘉禄元年の顛倒は前述のように嘉禎元年の写し間違いであり、問題は嘉禎元年の顛倒があったかである。『大社町史』では井上寛司氏が嘉禄三年の仮殿遷宮の前に顛倒があったはずとの立場から嘉禄元年に顛倒したとされたが、山岸氏は嘉禄元年は嘉禎元年の誤記とした。三浦正幸氏も同じ見解であるが、前述のように誤記であり、嘉禄元年に顛倒したとの記事はないということになる。『松江市史』では西田友広氏が『大社町史』を論拠に嘉禄元年に顛倒があったと記している。ただし、井上氏は「文献史学からみた宝治」2年の杵築大社造営」(『出雲大社境内遺跡』、二〇〇四年)でも同様の見解であったが、その後の論文集では山岸氏の意見を踏まえて嘉禎元年顛倒説に修正している。
 問題は、義孝申状とその派生史料にのみある顛倒があったかである。嘉禄三年の仮殿遷宮の後、正殿造営が始まったが、その進捗は遅れていた。嘉禎元年一一月の顛倒に対して、同年閏六月八日には領家が神主に対して、造営文書を披見して年内に棟上げをおえるように命じている。しかし造営文書を所持する国造がこれを拒否し、見通が立たないため、九月には領家が出雲真高を解任して国造義孝を神主に補任している。この二ヶ月後に果たして顛倒があったかどうかである。関係文書が何も残っていないことは、その存在を疑わせる。
 造営中の正殿が顛倒した可能性もあるが(山岸氏が主張された儀式としての顛倒とは考えられない)、国造兼神主義孝の記事にはくをつけるためにこの記事が挿入された可能性が大きいと考える。この時期、偽文書ではあるが、嘉禎二年六月五日関東御教書(『松江市史』では正しいものとされている)が残され、そこでは孝綱の子経孝が神主に補任されている。兄孝綱系の経孝と弟政孝系の義孝の間で国造をめぐる対立があったことが反映していると考える。経孝の名前からは将軍頼経との関係もうかがわれるが、後世に作成された文書なので、詳細は不明である。

嘉禎元年の顛倒1

 宝治二年の正殿遷宮の前提となる仮殿遷宮と顛倒の問題について、再度確認したい。承久二年の段階で、建久元年造営の正殿から御神体を仮殿へ移し、新たな正殿を造営する必要が認識されていたが、当時は鳥羽院が内裏造営を行っており、続いて起こった承久の乱の影響で、造営への着手は遅れていた。仮殿の造営が始まったのが嘉禄二年前半であった。造営は国衙目代と領家が補任した神主によって行われるが、承久の乱で国衙の有力在庁官人のほとんどが没落し、国造を押さえて神主に補任されていた中原孝高も没落した。そのため、国造が神主に補任されたと思われる。ただし国造家でも兄孝綱流と弟政孝流の間で国造をめぐる争奪戦が行われていた。また、国造が神主に補任されるのは当たり前の事ではなく、それ以外の人物が補任されることが珍しくなかったと思われる。
 そうした中、神主国造政孝(ないしは孝綱)・権検校出雲真高の体制がスタートしたが、神主の権限を分割して生まれた権検校について国造は不満を持っており、真高を圧迫した。その結果、領家は国造を神主から更迭し、別の人物を神主に補任したとみられる。これに対して国造政孝が本家承明門院に神主は神殿造営のため補任される相伝の職であると訴え、政孝を神主に補任せよとの院の意向が示された。この結果、政孝が領家から神主に補任され、嘉禄三年六月の仮殿造営が実現した。建治二年二月日領家藤原兼嗣袖判下文には、嘉禄造営時に旧記がないため造営が遅れた際に、旧記を所持する政孝が神主に補任された例にならい、政孝の子国造義孝を神主に補任するとあるが、これについて松薗氏が疑問を呈し、山岸氏もその見解を受け入れているが、事実に基づくものであることは、本家承明門院御教書(『大社町史』では姉小路親王令旨とするが、その根拠が不明である。院の令旨を院の政所別当に伝えるために出されたものである)により明らかである。神主は神殿造営により補任された相伝の職であるとして、政孝の主張を認めている。

史料の優先順位

 ようやく山岸常人氏「中世杵築大社本殿造営の実態と背景」(仏教芸術278、2005)を入手し、ざっと読んだところである。同時に松薗斉氏「中世神社の記録について-「日記の家の視点から」」(「史淵」127、1990)も国会図書館から複写を取り寄せて、とりあえず関係部分は目を通した。つくづく文系・理系を越えた幅広いバックボーンがないと杵築社造営の問題は解けないと思う。理系のごく一部の分野を除けば、研究には文系・理系両方の基盤が必要である。ただし、歴史・考古学者の中には理系のセンスが十分ではない人がままみられる(本来は文系と理系に分けることそのものがナンセンス)。理系の研究者についてはよくわからないが、杵築社造営をめぐる問題をみる限りは文系の素養(具体的には文書を通して得られる政治史の理解)が十分ではないように思われる。山岸氏の検討もその一年前に発表した拙稿「中世前期出雲大社史の再検討」(ただし、現時点ではより理解を深めた点が多々ある)を踏まえていれば、ずっとよいものになったと思われる。文献史学側の成果が不十分なままなされてしまったのである。とはいえ、山岸氏自身も通説の個々の内容を再検討しなければ、解決に近づくことはできない。
 山岸氏の論文ではいくつかの表が作成され分析のてがかりとされているが、その典拠としてAからHまでの記号がふられた八点の史料があり、うち六点が中世、二点が近世の史料である。それぞれの記載内容を比較検討することそのものには問題ないが、表題のように関係史料には優先順位があり、それを踏まえて分析しなければならない。宝治の遷宮までにかぎればABCの三点で十分である。
 Cを作成した時点でその元となる史料はあったのだろうが、弘安四年に作成した国造義孝が、ABと矛盾する点について解釈を加えて作成したのがCである(大社町史二三七に続くのが三一四であるが、この明白な点すら二〇〇四年に拙稿を発表するまで誰も気づかず)。Cの記述内容は他の史料で検討しない限り使えない。国造が杵築社遷宮時には神主も兼任していたとの主張は事実に基づかないものである。GはCに基づき、その後のデータを付け加えて作成されたものである。ただし、写す際に誤りがあり(仮殿造営の後に顛倒が記されていることに疑問を持ち訂正した可能性も)、Cが記す嘉禎元年の顛倒を嘉禄元年の事としてしまっている。CとGの間に存在した史料もあったであろうが、残されていない。Dは信頼性が低く、EはCを要約しつつ、書き継いだもの、Fは独自の記載があり注目されるが、信頼性の低い記事を含んでいる。間違ってもDEFGを根拠としてABCの内容を否定してはならない。
 山岸氏が発掘された三本柱を束ねた遺構について建久元年のものと主張している点と毎回本殿の規模は違っていたと説いている点は初めて知ったが、論者により違いがあるようなので、建築史の研究者の論文で確認したい。当方も建築学の素養はないが、調べつつ学習し検討する意欲は持ち合わせている。ただし、学会誌に発表されたものが多く、閲覧するには建築学会の会員となるか、1本あたり一〇〇〇円ほど払うかのいずれかが必要であり、とりあえずは浅川滋男氏編『出雲大社の建築考古学』(同成社)で確認してみたい。
 付記 山岸氏が論文であげていた松岡高弘・土田充義氏「出雲大社における中世の仮殿造について」(1988)については、ネットでPDFが閲覧でき、確認した。『日本建築学会計画系論文報告集』の1993年以前のものは公開されているが、それ以降の論文は前述のとおり有料である。

2018年4月18日 (水)

『尾氏春秋』の地震記事1

 東日本大震災時に紹介した島根県邑智郡の記録『尾氏春秋』(以下では「春秋」)の地震記事を、大田を中心とする地震が起こったことをうけて、時代順に述べていきたい。
 「春秋」の最初の部分は過去の尾原家の記録の要約となっている。最初の記事は宝永四年一〇月四日八つ時(一四~一五時)に激しく揺れた記事である。紀州沖を震源とする大地震で、翌五日の朝の津波で大坂では三〇〇〇余軒が被災し三万人余が死亡、船一万艘が破損したとする。
調べてみると駿河国から日向国までの太平洋側での被害が大きく、日本海側でも震度六と推定される地域があった。
 次いで文化元年(一八〇四)の出羽大地震を記すが名称のみである。この地震により景勝地であった象潟が隆起して陸地になったことから象潟地震と呼ばれている。文化九年一〇月九日にも地震があったことのみ記す。文化一〇年四月一一日八つ時にも地震。翌一一年正月には五日夜、晦日夜の四つ時にも地震。二月八日七つ時にも地震の記事がある。一〇月二八日夜大地震、一一月一一日昼七つにも大地震の記事。明けて文化一二年正月一一日夜九つ時にも大地震の記載があり、前年から地震が頻発している。同年一一月二五日夜八つ時と一二月二七日にも地震。年が明けても正月一五日夜五つ時にも地震、二二日には大地震。文化一四年二月九日地震。六月二六日夜七つ時大地震。文化一五年正月二三日夜八つ時大地震。改元して文政元年(一八一八)となり、翌二年三月一九日夜四つ時地震。六月一二日八つ時地震。この月には浦賀にイギリス船が来航して交易を希望したが、強化せず、米五〇〇石を与えて帰国させたとする。ただし、確認すると来航は文政元年のようである。しばらく間があいて文政一一年九月五日朝五つ時に大地震。天保二年にも京都で前代未聞の大地震があり二〇日ほど続いたことを記すが、一年前の文政一三年(一八三〇)の誤りである。市中の二階建ての建物はことごとく倒壊したという。出雲大社谷風の琵琶を禁中へ差し出させたところこの大地震となったため、琵琶は大社に返されたという。体感する地震が近年より多い気がするが、どうであろうか。

帳外者の帰村

 木下光生「生き抜く術と敗者復活の道」(『貧困と自己責任の日本近世史』)の中で、自己都合で無断で村を出奔した人々が帳外とされることに触れ、帳外者に待ち受けている社会の厳しさについて述べられている。隣村で非人番などを務めている例があるなど、苦しい中でも一定の見通しのもと出奔するケースも少なくないとされる。ただし、隣村でのことであり、且つ高齢化や病気により非人番が務められなくなると、村の支援を受けることは困難となり、その村を出て物乞いをする道しか残されていなかった。物乞いにも様々あるが、最悪の場合は行き倒れて死亡することもあった。
 松江藩では伊勢参詣などを口実に無断で他国へ出る人々の増加を防ぐため、帳外者の帰村を認めないだけでなく、国外で死亡した場合は関係者による引き取りと葬儀・埋葬を許可せず、出身国に青駄送りとし、そこで非人の人々によって埋葬させ、これを非人取り捨てと呼んだ。ただ、この行為の評価は難しく、とりあえずは生国に遺体は戻され、家の墓ではないが埋葬されたのである。その実態は「取り捨て」とは異なっており、非人の果たした役割は大きいとも言える。
 飢饉による大量の村からの脱出者の発生により、幕府も対応を迫られ、天保の改革では有名な人返し令(一八四三)を出さざるを得なかった。帰村の促進による村の再開発を進めようとしたのである。
 このような法令は急に出されたものではなく、寛政の改革では旧里帰農令(一七九〇)が出されており、これを徹底したのが人返し令とされる。そこでは帳外までのものと、各別の犯罪者を除いたものを村役人が身寄りのものに引き渡すよう命じている。その六年前の天保八年(一八三七)三月にも村の人別を外れたもので御救小屋に入ったものや、欠落一通りのものは免して帰住させる命令を出し、松江藩では五月に各郡に命令を伝えている。
 木下氏は一度帳外を宣告されたものであっても居村に復帰できる道の残されていたとして、一八五八年に出奔し帳外となった一家が村に舞い戻り知人を通じて帰村を打診している例を挙げている。復帰の条件は何であったかわからないとしているが、前述のように遅くとも二〇年ほど前からは、無条件ではないが帳外者の帰村が可能となっていたのである。ただ、これをもって村がより寛容となったと評価するのは正しくなく、幕府・藩・村が帳外のプラス・マイナスを勘案しての対応であった。

出雲国在庁官人平朝臣

 承久の乱後の出雲国在庁官人については、建長元年六月日杵築社遷宮等注進状に目代と知に署判を加えている七名(在国司勝部、庁事勝部宿祢二名、藤原朝臣二名、平朝臣二名)がその有力者であったことが知られる。承久の乱で国衙が大打撃を受けたため、貞永元年九月日出雲国留守所下文に目代とともに署判しているのは在国司一名、庁事三名にとどまっている(庁事二名には花押が無い)。そうした中で新たに登場してきたのが平朝臣である。
 平氏といえば、建保二年八月日土御門院庁下文に登場する平忠光がいる。国造孝綱の子孝忠は平忠光の孫であると記されており、孝綱が年貢千石を納入する点についは忠光が保証人として請文に加判を加えている。その経済力がうかがわれる。
 一方、注進状には宝物である御剣一本を持つ役人として左衛門尉平有康の名が見えている。文永四年七月五日に父後嵯峨院に代わって後深草院が行幸しているが、それに供奉した「御後官人」として六位尉平有康がみえる(『民経記』)。次いで同年十一月の除目では従五位下に除されている。注進状に記された遷宮の二〇年の記事であるが、同一人物である可能性がある。後嵯峨院北面暦名の文永六年分には従五位下として「有康 大夫尉 肥前守」がみえ、これは文永四年の平有康と同一人物であろう。
 注進状以前の史料としては、 貞応三年の注記を持つ六月一一日領家藤原雅隆御教書の奏者として左兵衛尉有康がみえ、大社神主に権検校真高が料田を沙汰することを認めるよう命じている。翌嘉禄元年の注記を持つ七月一九日領家家隆御教書では沙弥昌達が奉じて、平右兵衞尉に対して、権検校の問題の処理を命じている。嘉禄二年に比定される八月二三日領家家隆御教書は沙弥昌達が奉じて、故殿(雅隆)の下文に任せて料田として開発荒野を引き募るよう権検校に対して命じている。七月二七日に領家家隆袖判下文により権検校真高に所識を安堵しており、それを施行したものであった。
 命令系統は、領家(雅隆・家隆)→昌達→平有康→大社神主・権検校であったと思われ、平兵衞尉有康は杵築社領預所として、都と京都を行き来する存在であった。この右兵衞尉有康が昇進して左衛門尉に補せられることは自然であり、文暦二年九月日領家藤原家隆袖判下文には奏者預所左衛門尉平が署判を加えている。有康が杵築社支配の経験を買われて出雲国衙の役人に補任された可能性がある。有康は北面系の人物であり、国衙役人への起用は仁治三年に即位した後嵯峨天皇との関係も背景にあったのではないか。この有康の関係者が出雲国衙の庁事平朝臣ではないか。推測に推測を重ねているが、一つの可能性として提示した。

近世における救済と自己責任2

 この本で扱われた論点に関係する一つの実例を紹介すると、宝暦一一年(一七六一)一〇月に、出雲国南部飯石郡のある村では村高の減額が認められたのを受けて、年貢負担者が請文を提出している。寛延四年の検地で一〇五三石と石高が増加したが、これに基づく税負担が過重であると村が訴えた結果、同年に一四五石減石された。その村は広瀬藩に属しており、飯石郡広瀬藩分の人口は元文三年(一七三八)の九一六人が、宝暦一二年には八二三人に減少している。また、出雲国松江藩分(除広瀬・伯太藩分)の年貢収納高をみると、平年が三二万石程度(一七七〇年代以降は三七万石程度に増加)に対して、宝暦五年と宝暦九年が二三万俵台と落ち込んでいる。前年の不作をうけて、宝暦一〇年にようやく減額が認められたのであろう。寛政一一年(一七九九)の検地では村高は九〇三石である。
 宝暦一〇年の請文の署判順は、寛延三年検地の持高順に基づくと思われる。請高をみると五石以上が三七名で、合計一六七名であるが、今回の署判者一二二名は高一斗以上の人だと思われる。この村には治安維持や竹細工の傍らで農業も行う鉢屋(男子)が一一人おり、その内一斗以上の高を持つ六名が署判している。寛延四年に持高が最も多い鉢屋勘蔵は五石三斗五升請け負っており頭であったと思われるが、宝暦一〇年までに死亡したようで、請文には四〇番目に源左衛門が署判している。
 源左衛門は寛延四年時は二斗七升七合の持高であったが、勘蔵の死により頭となり、鉢屋の人々の持高の変更が行われたのだろう。鉢屋の人々の生業において田の耕作の占める割合は百姓の平均よりかなり低かったと思われ、実際の経済力では個人差が大きいが、村の上層に匹敵する経済力を持つ鉢屋がいたと思われる。木下氏の説くように、持高のみで経済力がはかれないが、鉢屋においては持高が頭などの家格を示すことに利用された可能性は大きいのではないか。また、鉢屋の人々が他の百姓と同様、持高に基づく順番で署判を加えていることも注目される。

近世における救済と自己責任1

 購入しながら序文しか読んでいなかった木下光生氏『貧困と自己責任の近世日本史』を読んだ。よんどころない理由で隠岐へ日帰りすることとなり、昨日は波も凪いでいたので、船内で本を読むことが可能であった。
 最初に史料の評価について問題とされた。従来行われてきた持高に基づく分析に疑問がなげかけられた。持高の多寡とその家の状況の良し悪しの相関性はそう高くないというのある。本来の持高に意味はあったが、時間が経つにつれて実態とのあいだのズレが大きくなるのはどの時代にもみられる。中世では細かいデータは残っていないが、平安末期のデータに基づく大田文の田数が中世後期でも利用されていることはよく知られている。一三世紀半ばの実際のデータがわかる庄園の場合でも、大田文の田数とはかなりの乖離(増加している)がみられる。データーそのものは偽造されたものでなくても、時代の変化を踏まえずにそれをそのまま使うことによって歴史を偽造してしまうことはあるのである。

 救済のあり方について、通説では積極的に関与してきた藩などの領主が近世後期になるとそれは村の責任が基本だとして、消極的になるとの通説についても、近世前半から救済の主体は村であり、あくまでも藩はそれを補うものであったとの批判がなされた。これについては、なお前期と後期の藩の対応、あるいは村の対応について、さらなる事例の収集が必要であると感じた。
 この本では松江藩が救済のために支出した米とお金についても表にされ、それが臨時的な位置づけでしかなかったことが記されている。その出典となる「出入捷覧」についてもさらなる分析が必要であるが、これでわかるのは現在の一般会計の範囲であり、特別会計についてはブラックボックスとなっている。

2018年4月15日 (日)

資料の残り方とその評価2

 申状で国造側は神主について、幕府からの代々安堵と不易の御下知により、孝時が神主であることは相違なしとして、領家進止との主張を批判する。幕府からの申し入れにより領家が重代相伝に任せて社領を一所残らず義孝に安堵したと記すが事実とは異なっている(実際に社領については裁判が継続している)。安堵を受けたことを国造が三月に幕府に注進し、それに対する幕府からの回答が五月一七日御教書であった。よって建治二年に不易の御下知が出されたとする国造側の主張は誤りである。
 それゆえ、弘安一〇ないし一一年の小規模な本殿(その意味で仮殿と評価ヵ)遷宮が終わった後、再び出雲実政が領家(本家の交代に伴い兼嗣から某御房に交代、次いで廊御方に交代)から神主に補任され、それを義孝の子泰孝が幕府に訴え、正応五年には幕府が廊御方に泰孝を補任するよう求め、永仁五年には実政の越訴が幕府によって棄却されている。これにより実政は神主職をめぐり国造泰孝と対立する方針を転換し、領家の雑掌となることで対抗していった。
 この泰孝と実政の相論と平行して領家をめぐる松殿兼嗣と廊御方の相論も行われていた。背景は弘安六年の安嘉門院の死により新たな本家となった亀山院が兼嗣に代えて新たな領家を補任したことによる。兼嗣側は本家が代わろうと相伝知行してきた権利は認められなければならないと過去の例に基づき主張し、少なくとも嘉元四年には兼嗣は杵築大社領の領家の地位を回復していた。領家松殿氏と結ぶ実政と、幕府と結ぶ国造という図式で対立が続いていった。延慶二年以降の訴訟は雑掌が社領等を押領したとして、国造側が訴えたものであった。神主職こそ確保したが、なおその権利を制限する実政の活動は継続しており、国造側の主張とは異なり正和三年の時点でも相論は継続中であった。

資料の残り方とその評価1

 訴状とそれに対するは裁許の下文がセットで残っておればよいが、杵築社については国造側の文書に訴状のみで下文が残ってない例がみられる。訴状に記された内容を分析することはよいが、大切なのは訴えが実現しなかった(敗訴した)ので下文が残っていないことである。敗訴の場合は、訴状の内容に問題があったことになる。
 建久二年七月日出雲国在庁官人等解状がこの典型的な例である。この訴えが認められた場合、写しを含めて裁許が残っていないことはありえず、国造側は内蔵資忠に敗れたのである。実際に建武三年の国造孝時の申状には、建久三年に領家側が資忠を補任した文書と幕府がこれを認めた文書が引用されている。これは領家が神主補任権を持っている証拠として出されたが、それを否定する国造側は義理と云い、文章と云い不審と主張した。実際には正しい文書からの引用であったことは明らかである。
 建武三年の裁判は国造側が勝訴した(動乱でストップヵ)可能性もあるが、この申状を含めて後世に残したくない記述があったため破棄されたと思われる。偶々佐草氏から千家氏に養子に入った出雲自清が今となっては無用なものだが惜しむ所があり、前欠ではあるが写したのである。ここで具書としてあげられている正和三年八月二七日関東下知状についても、国造側が勝訴したと述べているが、実際には残していないのも同様の理由であろう。引用されている部分からは、幕府がこの問題に口入した事が事実であることが確認できるが、「以所領捧神主知行支証」の部分は引用が不完全だと思われる。本来は領家が所領を神主に捧げた証拠の提出を求めたものであったと思われ、判決ではなく途中経過のものであろう。
 建武三年の申状の具書として提出された文書で唯一、五月一五(実際は一七)日関東下知状(付建治二年)が残っているが、国造側は申状の中でjこれを建治二年不易御下知と呼んでいるが、後述のように誤りである。具書には「同領家御状案」もみえるが、建治二年二月日に国造義孝を神主に還補した領家松殿兼嗣下文が残されている。ただしそこでは、出雲実高が遷宮旧記を所持せず先例を知らないため、造営が遅れている上に、幕府からの介入があったためとしている。補任は造営と遷宮を完了させるためである。

建久二年八月日出雲国在庁官人等解

 建久二年七月(以下解状A)の解状は神主職をめぐる対立に関するものであったが、八月二日解状(解状B)はどのような背景で出されたものであろうか。最初には孝房先祖兼忠已前の文書が焼失したと述べ、本文によると久安五年一一月二八日夜の火災により焼失したと述べている。焼失した一三通の国造補任状中で直近のものは兼忠を補任した天承元年(一一三一)四月三日庁宣だとする。
 久安元年(一一四五)には杵築社遷宮が行われ、次いでその翌年に杵築社領の立券が行われた可能性が高いことを指摘した。この解状からわかるのは、国造をめぐっても対立が生じていたことである。出雲宿祢一族は出雲国衙の有力在庁官人であり、その中に国造を務める家があった。ただしそれは固定しておらず、国造関係の家の間で国造をめぐる訴訟も少なからずあったと思われる。そうした中、「兼」をその名に付ける家に代わって新たに国造となったのが孝房の父宗孝であった。宗孝は建久五年(一一九四)の在庁官人等解状(解状C)では「出雲氏である上に兼忠の嫡子」だとされるが、この解状は後世に作成されたもので、この部分の記述は事実ではない可能性が大きい。何より、解状Bでは孝房からみて「伯父兼忠」と記されており、兼忠は孝房の父ないし母の兄ということになる。また解状Cから孝房と石王冠者の間で国造をめぐる対立があったことがわかる。
 解状Aで延久四年に国造に補任された頼兼(「兼」を名前に付けた最初の人)には嫡子宗房があり国造を継承したが、在職一年で死亡し、その子兼家がまだ幼少であったので、弟兼宗が国造となった。兼宗の嫡子として国造となったのが兼忠であった。次いで国造となった宗孝については兼忠との関係が不明であることはすでに述べた通りである。一方、兼忠は国造として初めて神主に補任されているが、補任権は領家が握っており、宗孝が神主を継承したかどうかは不明である。文治二年(一一八六)五月に神主に補任された内蔵資忠の前任者が孝房であったことは確認できる。建武三年(一一三六)の国造孝時申状土代の中では、西郷(=出西郷)は孝時先祖開発の地だと述べており、経済力を背景に新たに神主に補任されたのが宗孝であり、次いで国造兼経の死とその子石王冠者が幼少であったために、宗孝が国造を兼ねたのではないか。
 これに対して、成長した石王冠者側が国造補任を要求し、宗孝の子孝房との間で相論となったのであろう。それに対抗するため、孝房は粉失状(解状B)を作成し、国造の正統な後継者であることを主張したのだろう。ただし、解状Cは偽文書であり、裁判の判決も残されておらず、結果は不明である。国造の系図によると石王冠者は須佐社の祭祀者になったとする。
 以上、「孝」系の祖宗孝については不明な点が多いが、解状Bの背景から、その問題解決の手がかりを得ることができた。出雲宿祢には在庁官人を務める一流(内蔵氏もその一つ)がおり、神主をめぐっては国造との間で激しい対立が展開していく。出雲宿祢には国造家と呼べる一流があったが、代を重ねることに関係者は増加し、その内部で国造をめぐる対立があった。さらには非国造系出雲宿祢との間で神主をめぐる対立があり、その最終的勝利者となった宗孝系の人々は国造兼神主について「万世一系」的な神話を後に作り上げていく。それが事実ではなかったことは言うまでもない。

2018年4月14日 (土)

巻き添え4

 郷原氏の「王将」との表現が今ひとつしっくりこなかったので補足する。将棋なら詰みがみえればあとはすぐに終局になってしまうのである(形勢が決まってから千日手・指し直しとなるのはほとんどない)。すでに詰んでいるのに、次の手を打つことも投了の意思を示さずに時間稼ぎをしていると考えたが、持ち時間には限りがある。同じ投了でも囲碁ならば手がありそうである。
 将棋ではあり得ないことであるが、幕末に本因坊秀策が出雲国に招かれ、知井宮山本家に滞在して、地域の関係者と対局をしている。山本家の前の当主が学問の傍らで囲碁を学び、家元の一つ井上家の門人で初段であった。現在ならアマではなくプロの初段程度であろうか。山本家は江戸後期には飯石郡の鉄山王田部家と並んで出雲国内トップの資産を持つ家で、その当主は庄屋だけでなく神門郡の与頭を務めた経歴を持っていたが、その一方で塾を開いて教育に当たっていた。そこに石見国大森から岸本左一郎が入門し、その才能を師に見いだされて、父とともに上京し、本因坊家に入門した。その直後に秀策も入門している。石見国大浦(五十猛)の庄屋林家の当主は本因坊家の門人で初段であった。なんといっても石見国からは本因坊道策が出ている。
 秀策が招かれたのは山本家前当主の一七回忌を記念する碁会のためであったが、そこでは地域の囲碁の強者のみならず、山本家をはじめとする有力者が男女を問わず秀策の指導対局を受けている。将棋なら王将を取られれば終わりだが、囲碁ならばどれほど劣勢でもとりあえずは打つことができる。負けてはいるが、少しでも差を詰める手を打つこともある。
 中国では囲碁は体育局の管轄下にあり、アジア大会も行われている。その際に、劣勢となった中国棋士がいつまでも打ち続けた事例が報告された。惑わす手を打ち続けて相手を時間切れ(敗北となる)に追い込もうとしたのである。日本では考えられない事例だが、勝ち負けにこだわりすぎるためであろう。これは中国棋士の一部にみられる問題であるが、一つの背景として中国では義務教育も十分受けずに棋士の修業をするケースが多いようである。日本では少なくとも中学校までは学校教育をきちんと受けなければならない。
 これは中国棋士を批判するというよりも、本人の不利益となることとして問題点を指摘している。そのようにして養成されている人が多いので、その中で勝ち抜くことは大変である。多くは挫折するが、その場合学校教育を受けていないことは大変なハンデとなるのである。また、成功した場合でもトップでいる期間は短い。後から同様の修行を積んだ若手が次々と出てくるためである。
 これも以前述べたことがあるが、以前はプロ野球のドラフトで上位指名された学生が、大学を卒業することなく入団するケースが珍しくなかったという。中退して早くプロになるのではなく、卒業のための残された単位を取らずに入団するのである。その後も選手の出身大学として報道されるが、実は卒業はしていないのである。そして選手として成功すればよいが、失敗すれば次の進路では高卒の扱いにしかならない。この事態を問題提起したのは在日外国人のマスコミの方であったと記憶している。
 はじめに戻ると、まさに愚か者が行っているのが囲碁に於ける悪い中国棋士と全く同じだということである。主権者には時間切れで愚か者の延命に手を貸すことにならないことが求められている。在日外国人の人がイギリスでは「記憶がない」とは犯罪を認めたと見なされると発言しているが、その通りである。

2018年4月13日 (金)

巻き添え3

  大学時代の講義(西洋史特殊講義)で故木村尚三郎氏が、自分は都立大法学部に勤務した経歴(1959~66助教授)があるので、弁護士の資格を持っていると述べた。大相撲の立行司の話ではなく、愛知万博のプロデューサーで、高校での世界史必修化実現の立役者といえば、思い出していただけるであろう。そんな事で資格が得られるのかと疑問に思った記憶があるが、調べてみると、現在は「司法試験合格後」という前提条件が付加されている。2004年3月末までに在職5年以上なら無条件で弁護士資格が得られ、それ以降は2008年3月末までに5年以上の人は、研修の受講と法務大臣の認定を経て弁護士資格が得られた。木村氏の発言に関する自分の記憶は正しかったことになる。
 前にも述べたことがある気がするが、木村氏の講義は、その最初に歴史の転換点となった年を聞いた。そしてそれは1930年だという。世界恐慌の次の年であり、なるほどと思う間もなく、なぜならそれは自分が生まれた年だから、という感じで始まった。講義がはじまると学生の方を見ることはなく、ずっと下を向いて猛烈なスピードで話していた。別に原稿を読んでいたのではない。話は計算されており興味を惹く物であった。
 なぜこの話題に触れたかと言えば、日本の制度があいまいだったからである。まだ、法律などの講義を5年以上行った経験とあれば許容範囲であるが、木村氏は西洋中世史が専門であった。正確ではないが、自らの専門分野の研究をどんどん深めるのとは違う方向に進んだようである。
 蒲島熊本県知事について気になったので調べてみると、いわゆる東大法学部教授とは対照的な経歴であった。そのあたりは関心のある方は調べてみることを進めるが、高校卒業後就職したが若くしてアメリカに渡ったのが大きかったようだ。学部と世代は違うが建築家安藤忠雄氏のケースと同じである。
 学生(国史学科)時代に大学院生の先輩に勧められ、東大法学部助手(法制史資料室)の方のところで行われていた勉強会(奈良坂と北山の非人をめぐる資料を読んでいた)に数回参加した。記憶を手がかりにネットで調べると助手の方はその後九州大学法学部教授となったようであるが、単著の論文集はまだ出されていない。本人の弁によれば自分は他の法学部の助手とは立場が違うとされた。本人は大学院をへての助手であったと思われるが、東大法学部では後継者とする学生を卒業時に助手に採用し、給料を払いながら養成するという。東大総長をつとめた佐々木毅氏、マスコミによく登場する山口二郎(法政大学)氏、長谷部恭男氏(東大法科大学院長から早稲田大学へ)、杉田敦氏(法政大学)の経歴をみると確かに法学部卒業と同時に助手になっている。そういった中で、樺島氏はその実績を評価され筑波大学から迎えられたのだろう。
 実績も実力も資質もない人物(将棋のルールも理解できないような人)が指導的立場(将棋なら王将とか名人・竜王)についていることろに日本の悲劇があるが、これを終わらせられるのは主権者のみである。某元財務局長の立件が見送られそうとの記事にコメントが寄せられているが、文書改ざんでの立件は難しいので国会で調査委員会を作って真相を明らかにすべきだと郷原氏がブログで述べていた。

2018年4月12日 (木)

巻き添え2

 郷原氏の主張に疑問があるならば、自分のブログなどを立ち上げて、誰にでも理解できる根拠をつけて主張すべきである。根拠をきちんと述べられない人々はネットで発言する資格はないと思う。「首相案件」という言葉の意味についても自分が行った解釈に該当する実例を示すことなく主張しており(無いので出せない)、バカボンのパパが「そうともいう」(これは笑いをとるための発言)と同じレベルで、自らが思考力が無いことを満天下に示してもしょうがない。ただもう少し前なら、根拠なき人々の言論にまどされる人は少なかったはずだが、今はこれが現実だ。いじめもこれを容認する人が一定割合を超えると、容認する人の割合の増加が加速する。本来は大半は反対なのだが流されてしまう。
 題名の巻き添えは「枡添」の誤変換ではない。ブレア氏のことを思い出したきっかけは愚か者の秘書官である。中には愚か者(別の言い方をすると「一つ覚え氏」であろうか)を利用して悪乗りしている悪質な人物もいるようだが、そうでない人が大半であろう。そのもっている能力を社会にプラスになる方向へ働かせればいいのにと思う。前文部次官は有能で評価できる人物だが、経済的背景がなければあそこまで自分の思うような行動はできなかったであろう。とりあえずは経済力と勇気がある賢人がいたことはラッキーだった。
 秘書官氏(ただし、経済産業省と電力会社の関係者こそ原発の問題をきちんと考えれば、脱原発に行き着くはずだが、氏はそうなっていないようだ。その意味では賢人ではない)は「記憶喪失症」という仮病を演じた時点ではあのような資料が出てくるとは思わず、脚本通り(愚か者による「強気で行け」との指示)に演じたのであろうが、今となっては引き返せず、このままでは愚か者の巻き添えになる可能性も出てきた。
 愚か者に残された手段は、現時点では解散のみであろうが、その場合は野党には入れたくないが心は有る有権者は「白票」で自らの意思を表明していただきたいというのは以前述べたところである。心のない人に語れるほどの力はないが、いずれ株価は上げ底の高梯子が外されてかなり下がるし、消費税引き上げもまったなしである。その時点で自ら努力しなければどうしようもない(公的救済の必要なケースもある)。株価の基礎となる経済をなんとかする方法はあるが、そのためには歴史的批判に耐えうるような指導者が不可欠である。
 小泉元首相が樺島熊本県知事の東大法学部教授時代のゼミOB生の前で講演したとの記事があったが、石油会社の経営者であるブッシュ氏以外が大統領ならアメリカは介入しなかった可能性もあり、そのような誤った判断を支持したことには質問攻めがなされなければならないが、どうであったろうか。「首相」は気合いだけで務まるポストではなく、普通なら総理大臣になれない(その意味では愚か者も同じ)小泉氏は評価できないと思う。

巻き添え1

 今でも残念に思うのは、イギリスのブレア首相が、首相でなければ反対したであろう米ブッシュ政権のイラク攻撃に賛成せざるをえず、それが冷戦終結後の最も優れた政治家を退陣に追い込んだことである。ブレア政権が続いていれば、EUをめぐる混乱も緩和されたであろう。一二年前に退陣した時点では五四才になったばかりであった。このブログで最近論じた愚か者は一歳下である。前回はオバマのような人といったが、それ以上にブレアのような人がいれば日本の救世主となるが、実際はいないので、有権者が自らに厳しい目を向けて後継者を考えるしかない。ブレアとブッシュの政治家としての立ち位置はまったく違っていた。ちょうどオバマと愚か者の立ち位置がまったく違っていたように。
 このブログでは、昨年二月にばれた時点で投了すべきであったと述べたが、郷原信郎氏が本日アップした記事は「“安倍王将”は「詰み」まで指し続けるのか」というものであった。当方は「王将ではなくルールも知らない素人でしょ、そんなTHE last MANが王将となっているのが、異常であり、最大の悲劇である」と言いたい。これに対して沢山のコメントが郷原氏にすでに付されているが、同意しない人々は読まなければいいのに、読んでしょうもないコメントを寄せている。前にも述べた「自分の主張は可能性が0%でなければ正しい」とし、「他人の主張は可能性が100%でない」として否定する方々である。その代表が愚か者であることはいうまでもない。自己の主張が成り立つ可能性は0%なのに正しいとし、相手は100%正しいのに否定していることは、人間レベルまで知能が進化している人ならば理解できるだろう。
 ただし、とんでもない主張をする人々はある程度の経済力を持っているとのレポートがあった。自分の利害に関係なければ人間レベルの判断ができる人々なのだが、利害がからむととたんに人間以下のモード(悪知恵もこの中に含む)に変身するのであろう。その利害の最大のものは、お金(株価)ではないか。愚か者は税金・保険料・日銀を私物化し、とにかく株価が下がらないようにしており、その一点で支持している人も多いのだろう。ぬれ手で粟でお金を得ると腐敗する。現在の日本の富裕層の大半と大企業トップが該当する。一旦得たものは手放したくないのであろう。
 本来の愚か者と同じ極右思想の持主だけではこれだけ多数とはならない。自分は以前も述べたようにパチンコ・麻雀・競馬はもちろん株の売買もしたことはなく、今度もしないであろう。ただ、問題なのはそういう背景で述べられている低レベルの発言を読んだ若い人々が誤解をしてしまう可能性があることである。なんと言っても悪貨は良貨をあっという間に駆逐する。人間、自らのレベルを上げるのは大変だが、下げる(下がる)ことは簡単だ。

杵築社領の立券6

 忠光排除のため政府が派遣した中原(坂上)兼成(兼重)の経歴を確認すると、乱後の保元二年正月二四日に、それまでの正六位上左衛門大志兼明法博士から右衛門少尉正六位上に補任されており、乱の戦後処理として出雲国に派遣されたものである。それまで忠光のもとにいた国造兼忠が、神主忠光は讃岐院の関係者だとして訴えたのである。その後、一旦杵築社領は国衙領に戻され、平治の乱との関わりで一時的に失脚していた久安の遷宮を行った藤原光隆が治部卿に還任され、公卿に進んだのをうけて、後白河院を本家・光隆を領家として所領の再寄進が行われ、国造兼忠が神主に補任された。国造が神主に補任されたのはこれが初めてであった。しかし神主は、請文を提出した候補者から領家が補任するもので、後に国造義孝が主張するような「国造兼神主」というのは事実ではなく、国造が譲状に神主を書くことはできないものである。
 それが、領家藤原家隆が嘉禎三年(一二三七)に死亡した時点で成人した後継者がおらず、その跡はその死を看取った松殿基房の子忠房室となっていた女性が管理した。その一方で、杵築社の造営が行われるが、国衙と杵築社政所には過去の造営史料が残っていなかったため、仮殿造営の際に、国造政孝が神主に起用された。その後、神主は出雲真高や内蔵資忠の子孝元が補任され、正殿造営が開始されたが、これまた旧記の欠如(国造側は写なども提供しない)ため、政孝の子義孝が神主に補任され、宝治二年に完成し、遷宮が行われた。
 すでに述べたように領家が補任権を有するため、国造以外が神主に補任されるのが普通で、時に国造が補任されるというのが、国造義孝以前の状況であった。それが領家の死と後継者の関係で領家が主導権を発揮できなかったことと、正殿造営に時間がかかったため、結果として義孝が初めて長期間にわたり神主を務めたこと、さらには承久の乱により国造のライバルとなりうる有力在庁官人が没落するという条件がからんで、結果的に国造兼神主となった。ただし、家隆の後継者である松殿兼嗣(忠房と光隆の孫娘の間に生まれた)が成長し、主導権を握ると再び国造以外の人物が神主に補任されるようになった。これに対してまたもや国造にとって追い風となったのが文永七年正月に神殿が焼失したため、造営が開始されたことであった。ライバルとなった出雲真高・実政父子が神主に補任されて、国衙目代ともにこれを担った。当初は関連神社である阿式社に則って造営すべしとの命令がだされたが、知行国主と国守の交代により、旧記に基づき造営せよと変更された。国造のもとには従来の旧記に加えて、宝治の遷宮にいたる仮殿造営と正殿造営の記録が残されていたのである。それを可能としたのは領家不在という特殊な状況下で、国造義孝が国造としてははじめて長期にわたって神主の地位を保持したことであった。

杵築社領の立券5

  建久二年七月日出雲国在庁官人等解には、治暦三年二月一日の正殿遷宮では国造孝房の曾祖父国造国経が御神体を奉懐し、以下永久二年六月一八日(これが旧記を筆写する際に誤記したため生じた誤解で、正しくは天永三年六月一八日)の遷宮では祖父国造兼宗、久安元年一一月二四日の遷宮では伯父国造兼忠が、建久元年六月二九日(この日時についても問題がある)の遷宮では国造孝房本人が奉懐したと記されている。これはあくまでも祭祀を担う国造として役割を果たしただけであり、神主を相伝した証拠にはならない。、また国守が所領を寄進した相手は杵築社であり、国造ではない。
 これに続いて、ライバル内蔵資忠の父忠光が讃岐(崇徳)院宣と号して謀計をたくらみ、社務を押領したのに対して、国造兼忠が上洛を企て朝廷に訴えたところ、訴えは聞き入れられ、謀計であることは隠れないとして、使庁奉博士判官兼重に付けて看督長・下部等が下された。忠光の身を拘束しようとしたところ、神殿下の運古屋の萱に放火を企てたため神殿が焼失し、忠光は逃亡したことを述べ、其の子孫は永く停止すべしとの命令が出されたと孝房側は主張する。忠光の子である資忠が神主を望むのは濫望であり、謂われがないとして、却下を求めている。
 ただ、これは国造側の主張であり、在庁官人は国造側が作成した解状に署判したのみであろう。国造兼忠の時代の国造関係者は「兼」をその名に付けているが、兼忠が、それとともに内蔵忠光と同じ「忠」の字を付けていることも注目される。忠光の影響下にあったことを示している。解状を読むと、忠光の企ては未然に防止されたかに解釈できるが、実際にはこれまで述べたように、久安二年頃に日野実光-資憲父子と藤原清隆-光隆父子の支持のもと、杵築社領の寄進・立券が行われた。その際には国司が寄進した所領を核としながら、それに有力在庁官人等が開発の中心となった周辺の公領を併せて領域的庄園が成立し、その現地の最高責任者が神主に補任された忠光であった。そして、後者の所領は別納の地とされ、神主ではなく関係者が税を直接庄園領主に納めた。
 このような状況に大きな変化を与えたのが保元の乱で、敗北した崇徳院は讃岐国に配流され讃岐院と呼ばれた。讃岐に同行したのは重仁親王の母兵衛佐局と一部の側近であり、長寛二年に配流先で死亡した際も罪人として扱われ、国司が葬儀を行ったのみであった。それが寿永三年になってその祟りを緩和・除霊するため崇徳と贈名された。都に崇徳院の廟と御影堂が建立され、後には粟田宮と呼ばれた。

2018年4月11日 (水)

杵築社領の立券4

 すなわち久安元年段階ではなお庄園としての杵築社領は成立しておらず、光隆が遷任する久安二年一二月までに寄進が行われたのである。国司の交代期を選んで寄進・立券が行われるのはよくあることである。ただし、この時点で治天の君である鳥羽院の院庁下文が出されたのかは不明である。これがなかったがために、保元の乱後、国衙領に戻されたとも考えられる。そして前に述べたように、建久元年の遷宮の仕上げの時期に神主であったのは内蔵忠光の子資忠であった。建久元年の史料が残されなかった最大の原因である。
 現在残されている「治暦・永久(実際には治暦・天永が正しい)旧記」は、建久元年の遷宮終了後、再び神主が国造孝房から内蔵資忠に交代したため、国造側が在庁官人を巻き込んで神主職補任を勝ち取るために作成・提出した解状の具書として関係部分が筆写されたものである。そのため、資忠が中心となって進められた建久元年の遷宮に至る記録は写されなかった。それを写せば、国造側の主張が誤りであることがわかってしまうからである。訴訟の結果は幕府の推薦を受けた資忠が神主に再任され、旧記は生きなかった。これが再び日の目をみたのは、承久の乱後の仮殿造営時であった。造営が進まない中、旧記を所持する国造政孝が神主に補任されたのである。
 国衙在庁官人や国造のライバルとして神主を務めた中原孝高は承久京方で没落してしまった。孝高は在庁官人の中で勝部宿祢一族に次ぐ勢力を誇った中原頼辰と国造家の女性との間に生まれていた。これに対して、杵築社領そのものは承久の乱に関与しなかった土御門上皇が本家であったこともあり、ほとんど影響を受けなかった。その中で、国衙や杵築社領政所に保管されていた造営関係史料も失われたのである。それほどに承久の乱が出雲国に与えた影響は大きかった。中原氏に代わって国造と神主の地位を争ったのは出雲(松薗・佐伯氏の論文では「中原」と誤った記述)実高であったが、造営関係史料として残されていたのは建久二年の裁判のため国造側が作成した写しのみであった。これにより国造は神主として復活したのである。

 

杵築社領の立券3

  杵築社領の立券時期をさらに絞りこむと、久安元年の遷宮の状況がヒントとなる。本日、九州大学国史学研究室編『古代中世史論集』を入手した。中国地方の図書館にはなさそうで、島根県内の大学も検索してもヒットしない。国会図書館にはあろうが、論集の場合は一つ一つの論文の半分までしか複写してもらえないので、公共図書館の専用パソコンで閲覧するか購入するしかない。前者は利用時間の制約もあり、中古を送料込み二七〇〇円弱で入手した。セロハン紙こそないが、新品同様であった。一九九〇年の出版時の価格は一万円(税抜)である。高い買い物であったかどうかは収録論文のあたりはずれによる。最近では一定期間が過ぎて売れる可能性が少なくなった論文集は裁断されるようだ。
 とりあえず松薗斉氏「出雲国造家の記録譲状作成の歴史的背景」が主目的であった。関係論文で引用されており、とりあえず確認が必要と言うことで、内容にはそれほど期待していなかったがほぼ予想どおりであった。譲状等関係史料の真偽は検討されておらず(この点については最終的には、同氏の「中世神社の記録について-「日記の家」の視点から」で再度確認したい)、造営旧記作成の背景もきちんと分析されていない。承久の乱が出雲国衙と杵築社に与えた影響も考慮されていないという状況である。
 唯一参考になったのは、康治元年の仮殿遷宮とそれに続く正殿遷宮の際の儀式と宝治二年の正殿遷宮が表にして比較してあることであった。前者では国造は遷宮儀式の際の司祭者としての立場を出ない存在であったが、後者では造営・遷宮の共同運営者の地位にまで上昇しているとする。実際はこの間に建久元年の正殿遷宮があったのだが、その関係史料は残されていない。大きな変化があったのはこの建久元年の遷宮であったと思われる。その変化とは国衙の一部を構成する一宮杵築社とその所領から、本家・領家の支配下におかれた庄園としての杵築社とその所領へと変化したことである。

 

杵築社領の立券2

 これに対して資憲は崇徳天皇や忠実・頼長との関係を深め、保元の乱では明暗が分かれる。資長は聖子が皇嘉門院となった時点で皇太后宮権大進を辞して右少弁に転じ、近衛天皇の死亡により後白河天皇が即位するとその蔵人に補任され、平治の乱後の永暦元年には蔵人頭、次いで参議に補任されている。資憲は保元の乱後出家したが、娘が平忠盛の子教盛との間に通盛以下の子をなした関係で、政治力は確保した。教盛も母が待賢門院女房であった関係で、崇徳との関係を有し、その中で婚姻が成立したと思われる。通盛が仁平三年(一一五三)の生まれであり、これを踏まえると、祖父である資憲は永久元年(一一一三)前後の生まれか。
 実光の後任として保延五年から永治元年まで大宰権帥であったのは藤原顕頼であった。顕頼もまた天養二年に丹波国福貴御園を成勝寺に寄進している。永治二年から康治二年まで大宰大弐となった平実親は藤原為房の長子為隆の娘を室とし、その間に生まれた範家は藤原清隆の娘を室としている。為隆は摂関家家司でもあった。康治元年から二年(下限は不明)には源憲俊が大弐となっているが、五味氏は藤原忠実が知行国主として大宰府を掌握していたと評価している。久安五年から仁平三年までは藤原清隆が権帥であるが、仁平二年八月一五日に出雲国飯石郡飯石庄が立券されている。
 揖屋社が立券された天養二年の出雲守は光隆であり、父清隆が知行国主であった。飯石社が立券された仁平二年の出雲守である経隆は二度目で、知行国主はいなかったと思われるが、その姉妹が藤原信通との間に生んだ女子が光隆の室となっている。また兄弟で院近臣であった忠隆は顕頼女子を室としている。すでにみたように、近衛天皇が死亡するまでは鳥羽院と崇徳院の間には大きな対立はなかった。
 以上、検討を加えたが、藤原実光-資憲父子と内蔵忠光-資忠父子の名前の関係を踏まえれば、杵築社領は揖屋庄立券と同時期に、崇徳院を本家、資憲を領家にして、寄進の中心であった内蔵忠光が神主(惣検校)として立券された可能性が大きい。同時期には島根郡佐陀庄が鳥羽院の御願寺安楽寿院に寄進、立券されていた。

杵築社領の立券1

 ようやく最初の立券の関係者が、藤原実光とその子資憲と結びついた内蔵忠光であることが明確になってきた。それが保元の乱で一旦リセットされ、新たに藤原清隆とその子光隆と結びついた国造兼忠によって再立券がなされた。後者の時期は平治の乱で一旦失脚した光隆が治部卿に還任し(四月三日)、従三位公卿となった永暦元年である。前者については、藤原実光の出家(天養元年一〇月)ないしは死亡(久安三年五月)が下限となる。天養二年に実光の子資憲により意宇郡揖屋庄が成勝寺に寄進され、仁平二年には増仁により飯石郡飯石庄が寄進されているが、実光の問題を勘案すると天養二年の前後となる。
 資憲は保延四年に隠岐守に現任し、康治二年から天養元年末までは下野守であった。任期四年を待たずに辞任したと記されており(本朝世紀一二月三〇日)、揖屋庄立券のためではないか。仮に三年間下野守であったとすると、永治元年末に隠岐守から下野守に遷任したことになる。隠岐守が四年とすると、保延四~永治元年隠岐守、康治元年~天養元年下野守となる。
 父実光は天承元年一二月に参議に補任され公卿となり、長承二年二月には大宰府大弐、保延二年には権中納言とともに大宰権帥に昇進し、保延元年正月に帥を退任するとともに正三位に、翌年に従二位に進んだ。大宰大弐・権帥は地方官ではあるが、日宋貿易の関係で収入の多いポストだとされる。資憲の異母兄弟で年齢が近かったと思われる嫡子資長(実光と資長は国守にはなっていない)は元永二年(一一一九)の生まれであり、資憲はそれ以前の生まれであろう。
 資長は保延四年四月に中宮臨時御給により従五位下に除せられ、保延六年四月には中宮権大進に補任されている。崇徳天皇の中宮聖子を通じて、藤原忠通との関係を強めていたと思われる。石見守など国守を歴任しつつ摂関家領を立券した忠通の側近源季兼の娘を室としている。

藤原親隆について3

 自分で調べてみて様々な発見はあるが、この問題の専門家がいてほしいというのが本音である。国守についてはある程度確認出来るが、国衙の問題には権介やその他のポストも関係する。それを確認するためには、全国の都道府県史に頼らざるを得ない。ただし、県史も最近刊行されたものはよいが、古い時期のものはそこまで言及されていないのである。
  権門体制という用語が登場して久しいが案外と実態の解明が進んでいないというのが実感である。問題は権門体制の是非ではなく、各権門間の力関係である。鎌倉幕府成立までは朝廷が中心であったが、承久の乱後は幕府の占める位置が大きくなり、純粋な意味での権門体制が成り立つのは鎌倉初期、とりわけ後鳥羽-実朝時代のみである。寺院をどう評価するかは専門家の研究に待ちたいが、神社を含めて鎌倉期以降は朝廷と幕府(一部は個人も)の寄進に頼らざるを得ず、朝廷・幕府に文句は言えても、それ以上の存在感はないように思われる。 
 とはいえ、杵築社領の領家であった藤原光隆-雅隆-家隆-兼嗣は公卿としては特に目立った存在ではない。光隆と兼嗣は参議(四〇才と三一才で)となったが、雅隆と家隆は非参議の公卿でしかなく、杵築社領以外の庄園は現時点では確認できない。それでも神主補任権を持ち、神主補任を望む人々はそれに従わざるを得なかったのは不思議な気がする。結果としては承久の乱により出雲国衙在庁官人の大半が没落して国造が経済的に優位に立ち、且つ幕府と結んだことで領家の権力を次第に弱めてはいったが、簡単ではなかった。永徳年間に光隆の娘の子である実教に始まる山科氏が将軍義満の側近としての立場を利用して庄園領主としての立場を復活させたことで、その支配は室町幕府の支配が有名無実化する前の文明年間までは継続した。
【補足】伊予守に続いて、親隆は子親雅を国守として保元三年五月六日から永万元年正月二三日までの六年九ヶ月間、長門国知行国主の地位にあった。一方、兄朝隆は嫡子朝方を国守として近江国知行国主の地位にあったが、保元三年八月一〇日には国守を庶弟朝雅に替えた。ところが朝隆の健康問題からか平治元年閏五月末には近江国司を退任した(一〇月三日に六三才で死亡) 。朝雅は叔父親隆の養子となって朝親と改名し、出雲国知行国主となった養父親隆のもとで出雲守に補任された。これに伴い、出雲守平基親とその父で知行国主であった親範は伯耆国に遷任した。
 親隆も長寛元年に出家し、永万元年八月に六七才で死亡するが、その年正月には長門国と出雲国の知行国主を退任した。
このうち出雲国については甥の朝方が知行国主となったが、実子が幼少であったため、藤原敦綱の子朝時を養子として出雲守とした。

藤原親隆について2

 永暦元年二月一三日美福門院庁下文に別当としてみえるのが親隆である。またその兄朝隆も美福門院令旨の奏者としてみえるように、二人とも近衛天皇、二条天皇との関係を背景に美福門院に接近していった。朝隆には美福門院女房となり従兄弟である光房(為房の子)の室となった娘がおり、親隆の室は為房の娘であった。 
 朝隆の嫡子朝方は伯父(次兄)顕隆女子を母としたためか、七才で院判官代から蔵人に補任され、父朝隆が三三才で叙せられた従五位上となったのは一四才であった。親隆の嫡子為親は伯父(長兄)為房女子を母とし、従兄弟朝方より一〇才程度年少であったと考えられる。従五位上となったのは朝方と同年齢であったと思われる。ただし三〇才を前に死亡し、朝方と違って公卿になることはなかった。
 朝隆・親隆本人が国守であった国における知行国主の有無は微妙である。朝隆は保延五年正月に信濃守に補任され、康治二年正月まで務めたが、前任者は長承元年一二月に補任された弟親隆であった。親隆の就任時は三五才、朝隆の就任時は四三才であるが、親隆は忠実・頼長父子の家司であり、朝隆は忠通の家司である。知行国主が忠実から忠通に移動したとの解釈も可能である。また、親隆は二八才であった天治二年三月には上総守に補任されている。元永二年七月に補任された前任者の藤原敦俊が六四才で死亡したことにともなうものであった。敦俊は楽器に堪能であった雅楽家敦家の子であったが、その室は堀河天皇乳母であった兼子であった。五味氏の研究では応保二年以降、上総国は摂関家(忠通)の知行国と評価されている。
 親隆は甥である院近臣藤原顕頼(知行国主)の子説頼の跡をうけて久安三年一二月に尾張守に補任された。すでに五〇才であるが、久寿二年一二月に二期八年の任期が満ちて、今度は伊予守に遷任している。この期間に保元の乱が発生し、崇徳・頼長が敗北したが、その影響を受けていない。

 

藤原親隆について1

 親隆は勧修寺流藤原為房の子であるが、摂津源氏源頼光の子頼圀女子を母とする為隆・顕隆・重隆・長隆といった兄に対して、法成寺執行を務めた法橋隆尊女子讃岐宣旨(藤原忠通乳母)を母とし、一才上の同母兄に出雲国知行国主をながらく務めた朝方の父朝隆がいる。四人の異母兄と朝隆・親隆の間には二〇才以上の年齢差があった。
 讃岐宣旨の兄弟には待賢門院の乳母を母とする行光や崇徳天皇の御願寺成勝寺に三ヶ所の所領を寄進し、その娘が摂関家の近臣藤原邦綱との間に子をなした増仁がいる。天皇家・摂関家との間に深いつながりを有していた。
 父為房が永久三年(一一一五)四月二日に死亡したことは、二人の昇進に影響した。朝隆が一七才であった天永四年(一一一三)に修理亮・蔵人、永久三年には左近将監となったのに対して、親隆が蔵人となったのは二六才となった保安四年(一一二三、摂政家勾当)であった。父の死が一年遅く生まれた親隆の人生に影を落とした。ただし、父の死は朝隆の昇進にもブレーキをかけ、両者が従五位上に除せられたのは大治五年(一一三〇)であった。
 朝隆はその後、長承三年に藤原忠実の娘泰子が鳥羽院に入内した際に、皇后宮大夫頼長のもとで皇后宮大進となり、永治二年に従四位上、久安元年に正四位下に除せられたのも高陽院御給であり、元永二年から保安元年にかけては高陽院の同母弟である忠通の家司であったことも確認出来る。康治二年には朝隆が信濃守を辞することで九才の嫡子朝方が淡路守に補任された。実質的には朝隆が知行国主であったと思われる。久安六年には近衛天皇の蔵人頭と中宮呈子(忠通養女)の中宮亮となり、仁平三年には参議に補任された。
 親隆も久安四年には「家司尾張守親隆朝臣」、久寿元年には「執事家司」とみえるように、頼長の家司を務めていた。長承四年に正五位下に除せられたのは待賢門院御給で、久安五年には近衛天皇の御願寺延勝寺供養日行事賞を鳥羽院から与えられて正四位下に除せられている。康治元年一二月一三日鳥羽院庁下文の署判者としてみえるように鳥羽院の近臣である。久寿二年七月二五日に近衛が死亡した後はその実質的後継者とされた二条の東宮亮となり、二条との関係を強めていた。保元の乱では崇徳・頼長方には参加せず、後白河方となってその政治生命を保ち、応保元年には参議に補任された。ただし親隆の嫡子為親が三〇才未満で死亡したため、その直系の子孫に公卿となるものはなかった。

2018年4月 9日 (月)

白票の薦め

 現在の日本の政治とそれにともなう人々の生活がとんでもない状況にあることは「暴走列島」で述べた通りである。そこで、悪政を転換する方法を提起したい。現在の指導者がひょっとすると自分の悪行も時間が経てば忘れてもらえるのではとか、最後は解散すれば野党の大幅な議席増はないので、なんとかなると思っていたら、多数の人々にとっては不幸である。
 前に述べたように、戦後の原子力政策を推進してきた政党は解党すべきである。ところが、現在の愚か者が退陣すれば自分にも目があるかもしれないと思っているような人間が指導者になれば、改善は期待薄である。現実に政党の存続を許してきたのはその政党に投票し続けてきた人々の行為であることは間違いない。その人の責任と言えば身も蓋もないので、行為の責任であることを明確にする。与党以外のどこに投票しろというのかとの疑問があるかもしれない。支持もしていない他党に投票する必要はない。投票に行って白票を入れることである。原発を推進してきた悪い政党の人々に反省させるにはこの方法しかない。どんなに問題があっても、野党には入れられないとの消極的支持が悪政を延命させてきたのである。投票に不安があれば、まずは世論調査で「支持政党なし」を選べばよいのである。そうすれば現在の与党の政治家も反省をせまられる。当然内閣支持も「わからない」とすれば、支持率が1割を下回り、すぐに悪政をストップさせることができる。
 前回の政権交代でこりたとの人がいるかもしれないが、政権交代にはプラスとマイナスがあり、プラスしかみていなかった人が失望して、また与党に戻ってしまったのである。本来はマイナスがあるが、ここで変えなければどうにもならないと自覚して行動すべきであった。政府の政治に問題があれば、それまで支持してきた人が、世論調査で「なし」とするだけで、政府の甘い考えは吹き飛んでしまう。反省が不十分なら、選挙で白票を投ずれば良い。
 世論調査で「なし」を選ぶだけで、内閣支持・与党支持の比率は急落し、愚か者は追放され、本当に反省した政治家のみが残るようになる。日本の官僚制には今回明らかになった深刻な問題はあるが、とりあえずの業務はこなしてくれる。ただし問題は当座の指導者であり、日産やマツダのように、オバマ氏のような人を日本の首相にして改革を進めることができればよいのだが、そのためにはオバマ氏のような人の了解と、その人を国会議員に選出することが必要となる。
 とりあえず世論調査の「なし」は政治家を真面目にさせる効果はあるし、仮に愚か者が無責任者の恥の上塗りとして解散などするようだったら、それを阻止できなかった与党関係者の責任を含めて、白票を投ずれば良いのである。政権交代が起こるかもしれないが、主権者の厳しい行動を目の当たりにすれば当選した政治家もへたなことはできなくなることは確実である。次の選挙は選挙管理内閣を選ぶものとし、選挙で4年間を任せたわけではないことを示すシステムも必要となるが、とりあえずは世論調査で明確な意思を示せば良い。もう混乱している余裕はないが、そのためにも一人ひとりの政治家を本気にさせなければならないし、政治家に不適格な議員(現在の指導者のように複雑な利害の調整ができないバカの一つ覚え=単細胞系の人のこと)は即刻排除することも必要である。

美福門院の院分国

 この問題は五味文彦氏が初めて本格的に論じたもので、氏は分国主である美福門院のもとで国守を勤めた人物として、藤原俊盛、藤原親忠、藤原隆信、藤原実清、藤原長明、藤原隆輔、藤原季能を、分国となったことがある国として、備後、丹後、安房、越前、摂津、筑前、若狭、讃岐、筑前、周防をあげた。これに対して「隠岐守藤原信盛」の項で、信盛と藤原重家の二名と隠岐国、上野国を追加した。このうち、重家について検討を加えたい。
 既に述べたように重家は家保の兄弟顕輔の子で、家成の従兄弟になる。美福門院もまた家保の兄長実の子で従姉妹であった。重家は家成の娘を妻とし、美福門院の死後は二条天皇の側近として活動している。重家が初めて国守となったのは八才であった保延元年(一一三五)の周防守であった。父顕輔は白河院の勘気を蒙って昇進がストップしたが、白河院の死により、藤原忠通の娘聖子が崇徳天皇の中宮となった際に中宮亮に補任されて復活し、保延三年に従三位に除せられて公卿となった。年齢は不明だが、久寿二年(一一五五)に死亡している。
 五味氏が最も早い時期の美福門院分国としてあげたのは保延二年一月の備後国で、俊盛が国守に起用されている。美福門院が鳥羽院の寵愛を受けるようになるのが長承三年(一一三四)、翌保延元年一二月に内親王を産み、保延二年四月に従三位に除せられている。院分国の定義も形式と実質があり、美福門院という院号を与えられたのは久安五年(一一四八)八月である。備後守補任も三位となる以前であり、寵愛を受け始めた時点で関係者である重家が周防守に補任されたと考えても不自然ではなかろう。ただし、父顕輔が知行国主であった可能性は残されている。周防国そのものは後には後白河院の分国となるような豊かな国である。ちなみに周防守重家の後任は藤原成頼で、五味氏は父顕頼が知行国主であったと評価している。
 重家は天養元年正月の除目で周防守から筑前守に遷任し、久安五年の二月か三月に摂津守であった親忠と入れ替わっている。五味氏は親忠の摂津守と筑前守は美福門院の院分国下であったと評価している。その後、重家は仁平二年二月に隠岐守から遷任して一年たらずの藤原信盛の死を受け、その跡である上野守に仁平三年四月に遷任し、応保元年正月の除目で、若狭守隆信と入れ替わっている(ただしこの時点では美福門院は死亡)。以上の重家の経歴をみれば、美福門院分国下の国守であったことは確実で、信盛が隠岐守と上野守であった時点でも両国は院分国であったことが証明されたことになる。

 

2018年4月 8日 (日)

天仁年間の杵築社仮殿造営2

 材木の漂着に関連して、神のお告げが記されている。杵築社造営の材木調達は諸国の神が協力して行うことになっていたが、今回は因幡国が担当して材木を採り進めたことを記している。治暦三年(一〇六七)の造営以降四〇年が経過したが、出雲国内の山林には造営用の材木は育っておらず、そのために他国から順番に材木を調達する方針が決定されたのであろう。因幡守藤原長隆が甥である出雲守顕頼のために提供したという個人的な問題ではない。この方針が決まったため、次回の久安元年(一一四五)の遷宮に至る造営はスムーズに行われた。ただし、どこから調達したのかは不明である。宝治二年以来四〇〇年ぶりの正殿造営となった寛文の事業でも但馬国から巨木を調達している。
 現在と同じ八丈(二四m)の正殿が造られるようになったのは治暦の造営が最初であったと思われる。それ以前からであれば天仁年間に混乱が生じることはなかったはずである。一〇世紀の『口遊』の記述からその当時の本殿の高さが一六丈(四八m)であったとの説があるが、技術的に可能という点と実際にそれが行われたかは別物である。国衙の財政状況、材木の調達、完成に至る期間(一六丈ならば八丈の二倍ではなく、四倍以上の材木と期間が必要となる)を勘案すれば、八丈を越えるものは不可能であり、中世末に正殿式の造営復活を願う関係者が妄想の中で作り出したのが一六丈説である。
 実際に三本の木を束ねた柱が確認された宝治年間の造営が二四mであったことを示す史料が残っていることについては、このブログで何度も確認したところである。その史料に基づき、一七世紀半ばの寛文の造営で八丈の本殿が復活した。また、八丈の本殿が最もスムーズに完成したのは藤原光隆在任時の久安元年の造営であった。前回の混乱が教訓となり計画的に進められた。一方では鳥羽院(安楽寿院領佐陀庄)や待賢門院(上西門院領長海庄)、さらには崇徳天皇(成勝寺領揖屋庄、杵築社領の最初の立券もこの時期であろう)の御願寺が建立されそこに出雲国内から所領の寄進が続いていたが、これを克服したのである。出雲国知行国主であった光隆の父清隆の政治力もそれに寄与したであろう。

天仁年間の杵築社仮殿造営1

 出雲守藤原顕頼の在任中に行われた天永三年(一一一二)の正殿遷宮に先立つ仮殿造営と遷宮の時期について検討する。というのはこれも異なる時期が関係史料に記されている。遷宮旧記に基づけば天仁元年(一一〇八)一一月一九日に仮殿遷宮が行われたことになるが、承久二年(一二二〇)の注進状には天仁二年六月に仮殿遷宮が行われたと記され、弘安四年の国造義孝申状には、天仁二年三月五日に顛倒し、同年一一月一五日に仮殿遷宮がなされたとされている。この問題を検討した井上寛司氏は遷宮旧記の記述を採用しているが、その根拠については述べられていない。
 このような違いが生まれた原因として、遷宮旧記でも天仁元年一一月以降の状況がしばらく記されず、事業が停滞したことがあった。それが天仁三年七月四日に杵築浦に大量の巨木が流れ着いたことで、造営事業が進んだことが読み取れる。旧記によれば仮殿造営後1年半以上にわたって正殿造営事業が停滞していたことになる。前回康平・治暦の造営から一国平均役が付加されるようになり、財政的問題は小さかったと思われ、造営のための材木の不足が原因であったと思われる。そして時間の経過により一旦造営した仮殿が破損などしたため、再度、仮殿が造営し直され、再びそこに御神体が移されたのであろう。
 義孝申状はこの事態を説明するためあのような解釈をしたが、事実に基づくものではなかった。現時点では、最初の仮殿遷宮が天仁元年一一月に行われたが、正殿造営のめどが立たない中、仮殿が破損し、承久二年の注進状が記す天仁二年六月に二度目の仮殿遷宮が行われたと考える。次いで、材木調達のめどがたち、実際に天仁三年七月以降に海路で材木がもたらされた。
 出雲守藤原光隆在任中に行われた久安元年(一一四五)の遷宮では、康治元年(一一四二)一一月の仮殿遷宮終了後、翌康治元年二月八日に光隆が政府に解状を提出し、それを認めたのが三月一九日の官宣旨であった。また、光隆の解状は仮殿遷宮に先だって出された八月一八日の在庁官人野解状をうけてのものであった。その解状の中で杵築社造営は庄園も一同に其の勤めを致してきたとして、最近の例として、康平五年と天仁三年の例を挙げている。仮殿遷宮の完了を受けて、造営に協力することを命じた官宣旨が出されたのがこの二つの年であった。一旦は天仁元年一一月に仮殿遷宮が完了したにもかかわらず、造営が停滞して、二年後にようやく政府の命令が出されたのである。これに対して康平年間は仮殿遷宮から正殿造営にスムーズに移行した。

2018年4月 7日 (土)

院政期の因幡国司2

 長承三年(1134)二月二四日に因幡守に補任されたのは西園寺公通であった。これまた待賢門院の近親者である。次いで保延六年(1140)四月の公通の因幡守辞任をうけて四月七日には藤原敦兼の子季行が因幡守に補任された。五ヶ国の国司を歴任し、大宰大弐になるとともに公卿となった。季行は藤原長実の姉妹を母とし、その妻は美福門院が生み二条天皇皇后となった内親王(1141年生)の乳母となった。その娘には九条兼実の嫡子良通を生んだ女子もおり、九条家との関係も有していた。
 康治二年(1143)一二月三〇日に季行と武蔵守を相博する形で因幡守となったのは藤原信輔であった。母は待賢門院の姉妹である三条公実の娘であり、若狭守であった長承元年一〇月には待賢門院の娘禧子内親王御給で従四位上に除せられている。その子信隆は一条家の、親信は水無瀬家の初代となり、院との深い関係を持った。
 信輔は久安六年(1150)一二月一三日まで現任が確認出来るが、仁平元(1151)年一月には藤原盛隆が因幡守に補任されている。ただこれ以外に因幡守に関する史料は無く仁平二年(1152)八月一〇日にはその異母兄弟藤原盛方が現任している。信輔は二期八年務めたのだろう。盛隆の年齢は不詳だが盛方は因幡守長隆の孫であるが一六才であり、父盛時が知行国主であった可能性がある。盛方は久寿元年(1154)二月八日には陸奥守に補任されている。盛時の室には信輔の娘がおり、盛隆や有隆という子がいたが、盛方は平忠盛の娘を母としていた。一方盛隆は長寛二年(1164)正月二一日には甲斐守に補任され、仁安元年(1166)八月二七日に止任となるまでは丹波守であった。
 久寿元年(1154)正月に盛方に替わって因幡守に補任されたのは信輔の子信隆であった。二条天皇に代えて高倉天皇を擁立する隠謀に関わったとして応保元年(1161)九月二八日に解任されるまでは因幡守であったと考えられ、保元の乱の影響は受けていない。
 これに替わったのは鳥羽院の近臣藤原家成の子隆季の子達であった。応保元年一〇月一九日には隆房が補任され、嘉応二年正月には隆保が、治承二年正月二八日には隆清が相次いで因幡守に補任され、この間の知行国主は院近臣である父隆季であったと思われる。兄弟である成親と師光(隆季養子)が鹿ヶ谷の陰謀で滅亡させられたのに対して、隆季の妹が平清盛の嫡男重盛の室であり、平家との関係も維持しつつ昇進した。
 平家の都落ち後、隆季とその子等は厳しい状況に置かれたと思われる。治承四年(1180)一一月一七日には隆季が知行国主であったことが、養和元年五月二七日には隆清が因幡守であったことは確認できるが、源義仲の入京とその滅亡、平氏の滅亡という政治的変動を経て、元暦元年九月一八日には頼朝に仕える京下りの公家である大江広元が因幡守に補任されている。知行国主源通親の現任が確認できるのは文治元年一二月二七日であるが、その就任は広元の補任時まで遡るであろう。

 

院政期の因幡国司1

 何故かこの問題について原稿をアップしていなかったので、確認する。源義親の乱を平定した因幡守平正盛はその功により天仁元年正月二四日に但馬守に遷任した。この除目については白河上皇が初めて主導権を握って行った人事で、その側近七人が熟国の守に任ぜられたことを中御門宗成が批判している。具体的には最下品の正盛が第一国の但馬守に任ぜられたこと、蔵人顕頼が一四才で出雲守に補任されたことを挙げ、その他としては甲斐守藤原師季、伯耆守橘家光、信濃守大江広房、尾張国高階為遠、伊豆守中原宗政が院との関係で優遇されたとする。
 前伯耆守為遠を尾張守に追いやって家光を院分国とした伯耆守に補任したとの評価があるが(佐伯徳哉氏)、六郡の伯耆守から八郡の尾張守への遷任は栄転であろう。当時の尾張国については松島周一「三河守・尾張守としての平頼盛」(愛知教育大・歴史研究60)を見ればわかる。これに対して因幡守に補任された藤原長隆については「蔵人」であることが記されているのみである。
 長隆は藤原為房の子で、源頼国の娘を母とする四人の男子の末弟であるが、長兄為隆とともに、摂関家との関係を有していた。これに対して次兄顕隆と三兄重隆は白河院との関係が強かったが、重隆には実子がなかったこともあり顕隆流が最も繁栄した。長隆は因幡守補任四年目に死亡している。三〇代前半であったと思われる。
 長隆の後任として天永二年(1111)七月二九日に補任された藤原宗成について、五味氏は父宗忠が白河との関係を強めて因幡国を知行国として子宗成を補任したものと評価した。宗忠の日記『中右記』には宗成の因幡下向や都への上洛、目代の派遣など因幡国関係の記事も散見し妥当であるが院分国の可能性も残されている。
 二期八年が過ぎた保安元年(1120)正月二八日に宗成は得替し、藤原時通が因幡守に補任されたがこの時点では院分国であった(中右記保安元年正月二八日条に院分民部卿養子とある)。五味氏は因幡国を時通の父長実の知行国とするが、院分-知行国主-国守という体制も可能であった。その意味で、宗成の時期も院分国とすることが可能である。
 大治二年一二月七日には時通は備後守に遷任し、因幡守には前武蔵守の藤原通基が遷任してきた。後任の武蔵守には藤原公信が補任された。長承元年(1132)正月一九日には通基が因幡守を重任、一〇月には待賢門院分として従四位上に除せられた。通基の妻には待賢門院官女でその娘上西門院の乳母となった女性がいるように、鳥羽院中宮待賢門院と深いつながりがあった。この時期は因幡国は待賢門院の分国ではなかったか。通基の嫡子通重は徳大寺実能の娘を室とし、通基の娘は西園寺通季、その子公通、三条実綱等の室となっている。武蔵守公信は待賢門院の従姉妹実信の子で常陸・若狭・丹波(通基の後任である可能性が大きい)国守を歴任している以外のデータはほとんどないが、大治四年七月七月三日には馬三〇疋を白河法皇と鳥羽上皇に献上しており、以前紹介した平為俊、藤原師季と同様、検非違使・北面からの登用であったと思われる。

 

 

2018年4月 6日 (金)

桛田荘の立券と停廃

 紀伊国桛田荘については、一時期は讃岐院領であったが、久安四年(一一四八)正月二八日に紀伊守に補任された紀伊守源季範の時に国領に戻されたとされる(平安遺文補二三五)。季範以前の紀伊国司をみると待賢門院と崇徳院に関係する人物が目立つ。大治五年正月二八日に紀伊守に補任された藤原公重は待賢門院の兄で徳大寺実能の養子となった人物であり、保延三年時点での現任が確認できる。養父実能が知行国主であったと思われる。次いで保延四年二二日に紀伊守に補任され、翌五年の現任が確認出来る藤原親能は親頼の子で、母は皇太后宮女房因幡であった。皇太后(崇德中宮聖子が近衛天皇即位で皇太后へ、その後、院号宣下で皇嘉門院へ)に仕える女官であった。その兄弟親長は皇嘉門院の判官代となっている、
 保延六年四月三日には源行宗が大蔵卿を辞た代わりに子雅重が紀伊守に補任された。九月二日には行宗の養女兵衛佐局が崇德天皇の子重仁親王を産んでおり、この時点で懐妊が明らかになっていたであろう。雅重の祖父源基平は小一条院の子が源姓を与えられた人物であり、父行宗までは公卿に進んだが、父と同様歌人としては知られ、二条天皇の歌会の常連であったとされる雅重は公卿には昇進できなかった。桛田荘の立券はこの雅重が紀伊守の時代に認められたものであろう。
  雅重の父行宗は待賢門院への昇殿を聴され、保延五年正月には女院の御給として七六才で従三位に除せられ公卿となった人物で、待賢門院-崇徳院系との関係を有する人物であった。ただし、太政官符を得た官省符庄ではなく国免庄であったがゆえに、そして立券後間もないこともあって停止されたのだろう。
 国領に戻した源季範は白河院北面康季の子で鳥羽院北面であった。周防・河内・紀伊守を歴任しており、国司の立場に忠実に、在庁官人の要求を容れ、崇德院に忖度することなく庄園の停廃を行ったと思われる。
(訂正)当初は藤原季範としていたが、源季範に訂正し、内容もそれにみあったものに修正した。
    皇太后=待賢門院としたが、崇德中宮聖子に訂正した。

2018年4月 5日 (木)

成勝寺領寄進時の国司2

 仁平三年(一一五三)五月に知行国主としての現任が確認出来る藤原実範については関係史料がなく系図上の位置づけができないが、久寿二年九月に丹波守に補任された藤原長方は藤原顕隆の孫で、顕頼の甥であり、その姉妹が、顕隆娘を母とする徳大寺公能の子実定の室となっている。徳大寺氏も待賢門院・崇徳院との関係が深かったが、公能は娘を中宮とするなどしだいに後白河との関係を強めていく。以上のように、福貴御園と池上寺が寄進された時期には待賢門院並びに崇徳との関係が深い人物が丹波守であった。
  但馬守については長承二年(一一三三)から保延三年(一一三七)にかけて現任した藤原隆季、久安二年(一一四六)一二月二九日に遷任した藤原経隆が確認できる。隆季は藤原基隆の子忠隆の娘を室としているが、基隆の娘には美福門院女房となったものがある一方で、子忠隆の妻栄子は崇徳の乳母であった。経隆の娘は美福門院の娘八条院の女房となっている。続いて清隆の子光隆と定隆が久安二年から仁平二年にかけて但馬守を務め、仁平二年から保元元年までは藤原長成の現任が確認出来る。長成の室は藤原長忠の娘であり、基隆の室とは姉妹である。
 これを踏まえて出雲守をみると、保安二年(一一二一)一二月一五日から大治三年(一一二八)一二月二九日まで藤原為隆の子憲方が出雲守であった。憲方の室は従姉妹となる顕隆の娘である。為隆の嫡子光房の室と顕隆の嫡子顕頼の室はともに藤原俊忠の娘である。徳大寺公能の室も俊忠娘である。そして憲方が周防守に遷任した後任が経隆であるが、二年後には「藤原光隆」が出雲守に補任された。後に出雲守として杵築大社遷宮をおこなった清隆の子光隆はこの時点では四才にすぎず、別人と思われるが系図上の位置は不明である。次いで保延四年(一一三八)一二月二九日には一二才の光隆が出雲守となり、保延七年の杵築社本殿の顛倒を受けて、仮殿遷宮を行い、出雲守を重任した上で正殿遷宮を終えた翌年の久安二年一二月二九日に但馬守に遷任した。その後任は二度目の出雲守となった経隆であった。次いで、保元の乱の前年である久寿元年正月二三日には源光保が出雲守に補任されたが、鳥羽院の北面から近臣となった人物である。
 以上のように、成勝寺に所領が寄進された際の丹波・但馬・出雲国司は崇徳天皇との関わりを持つ人が多い。当時は鳥羽院との対立も表面化しておらず、鳥羽院の院庁下文に署判を加えている日野資憲が崇徳の最側近であったように、鳥羽院関係者との間に大きな対立があったわけではなかった。

成勝寺領寄進時の国司1

 源頼朝は文治二年(一一八六)六月二九日書状で吉田経房に成勝寺興行を急ぐことを要請し、そうでなければ破損・大破すること、修復すれば天下静謐の祈りとなることを述べている。崇徳の除霊もあろうが、頼朝が待賢門院系の人々との間に深い関係を持っていたことがその背景にあった。
 丹波国からは福貴御園に続いて久安元年(一一四五)一二月には池上寺が阿闍梨寛季により寄進されている。寛季についてはその系譜上の位置づけは不明であるが、二ヶ所が寄進された時点の丹波守を確認する。その前提として確認すべきは、従来、崇徳は白河院の子であるとして、鳥羽院・美福門院と崇徳院・母待賢門院の関係を対立的にとらえる説が有力であったが、『古事談』の記述には根拠がなく、少なくとも鳥羽院と崇徳院の対立が生まれるのは近衛天皇の死後の後継者決定からであることが佐伯氏の研究により明らかにされていることを確認しておく。
 元永元年(一一一八)から保安二年(一一二一)にかけては藤原家保が丹波守であった。その室は崇徳乳母であり。佐伯氏によれば、白河院は家保の子家成を崇徳に仕えさせて将来の布石としたが、白河院の死亡により、家成は鳥羽・美福門院の近臣とされたという。その後任として保安四年まで丹波守であったのは待賢門院政所別当であった藤原清隆である、次いで前述の顕頼、そして待賢門院の甥西園寺公通と続く。その後任で保延元年から三年(一一三七)にかけて現任が確認できるのは持明院通基である。通基の室は待賢門院官女、上西門院乳母で、その娘が西園寺公通の嫡子実宗の母となっている。しばらく史料を欠くが康治元年(一一四二)に丹波守に現任していることが確認できる藤原公信は待賢門院の従兄弟実信の子である。
 次いで康治二年の現任が確認できる藤原為忠は歌人として知られるが、その室は待賢門院女房であり、その娘はこれまた待賢門院別当であった平忠盛の室となっている。さらに天養元年(一一四四)一二月三〇日に丹波守に補任された藤原維方は顕頼の子であったが、しだいに美福門院との関係を深めていく(為忠については保延二年に死亡し、惟方は同時期に丹後守であり、ともに誤りであった)。待賢門院は久安元年八月に死亡したが、久安四年正月二八日に丹後守に補任され、翌年八月に没するまで務めた藤原通重は通基の子で、その室は待賢門院の甥徳大寺公能の娘であった。その後任藤原成兼は待賢門院の甥であった。丹波国は一時期、待賢門院の分国であったとすべきであろう。

 

2018年4月 4日 (水)

成勝寺領丹波国福貴御園の寄進者

 鎌倉初期の成勝寺相折帳にはその時点で成勝寺領であった庄園の寄進者と立券の時期が記されている。最も早いのが天養二年(一一四五)の但馬国浅間寺(二月)、丹波国福貴御園(八月)、出雲国揖屋庄(月不詳)である。崇徳天皇の御願寺成勝寺の供養は保延五年(一一三九)であり、これ以前にも寄進はあったと思われるが、保元の乱における崇徳上皇の敗北等により、後白河の支配下に移行したものや、庄園が公領に戻された例があったと思われる。庄園絵図で有名な紀伊国桛田荘は久安3年(1147)以前に崇徳上皇領であったことが確認できるが、保元の乱以前に崇徳院領から国衙領に戻され、その後蓮華王院領を経て神護寺領となったとされる。実際に永治二年(一一四二)四月三日散位源行真申詞(平遺二四六七)には成勝寺領伊波庄がみえる(近江国ヵ)。出雲国杵築社領も当初は崇徳上皇を本家、その側近藤原資憲を領家として立券され、内蔵忠光が神主であった。
 その中でなぜ福貴御園を扱うのかと言えば、佐伯智広氏『中世前期の政治構造と王家』の中で、寄進者で領家である「民部卿入道」について、藤原師実の子忠教に比定されていたからである。氏は忠教の子教長が崇徳の近臣となり、保元の乱では崇徳方として敗れていることも触れられる。さらに仁平四年(一一五四)六月三日に摂津国難波庄を寄進した阿闍梨教智を忠教の子であるとされ、その比定は妥当かにみえる(氏も納得してしまったのだろう)。なお忠教の子頼輔は「難波」を名乗って行く。
 昨日、年末以来二度目となるが、鳥取県立図書館へ行き、氏の論文集を読み、その内容(比定)を知った。以前自分でも編纂所データベース等に依拠して寄進者の比定を試みたが、その際には第一候補として登場した忠教との比定は、最終的には却下していたのである。忠教は保延二年(一一三六)には大納言に進み、七年三月に鳥羽上皇とともに出家し、同年一〇月二五日に六六才で死亡。寄進は不可能である。生存中に四条中納言あるいは四条民部卿と号していたそうだが、仮に生存中に寄進していたら相折帳では「故大納言入道」と記されたであろう。
 それでは誰かというと、永治元年(一一四一)に権中納言兼大宰権帥から民部卿に遷任し、久安四年(一一四八)正月三日出家し五日死亡した藤原顕頼である。幼少時に出雲守に補任され、天仁三年の遷宮を行って退任した人物である。間違われやすい人なのか、二〇〇四年に論者が論文を書くまでは、康治二年三月一九日の官宣旨で杵築社造営者として「帥中納言家」と書かれた部分が(前述の経歴の通りである)「家」の後に「保」が欠ヵとされ、藤原家保と間違われてきた。永久六年正月二六日中宮権大進兼任(中宮・藤原璋子)、保安四年正月二八日新帝(崇徳天皇)蔵人、保延五年一〇月二六日:従二位(成勝寺の供養、行幸)という経歴を見れば、顕頼が寄進した背景は理解できるであろう。佐伯氏は今一歩の詰めを欠いたまま、納得してしまったのであろう。誰にでも起こりうることだが、うまい話には注意が必要である。

2018年4月 2日 (月)

二月二日出雲国宣について3

 有雅は承元二年に知行国主となり、承久の乱まで在任したと思われる。長いと思われるかもしれないが、建保三年後鳥羽上皇逆修進物注文によりこの年の知行国主の七割以上が明らかになる。常陸国知行国主二条兼輔は建仁三年の時点でもすでに現任が確認できる。また、飛騨国知行国主藤原親兼も承元元年の現任が確認できるのである。承元二年一一月に内蔵孝元が杵築社権検校となり国内数ヵ所の地頭に補任されたが、それに先立つ九月二九日には国造孝綱が神魂社領大庭・田尻保地頭に補任されている。これも実質的分国主後鳥羽、知行国主源有雅のもとで実現したものである。前述のように承元年間には出雲国衙領の検注も行われており、出雲国政治史における一つの画期があったのである。
 一方で、朝廷と幕府は同床異夢の関係にあり、杵築社惣検校孝綱と権検校孝元の対立が表面化した。孝綱は幕府や国守と結んで孝元を排除しようとしたが、これが補任権を持つ領家藤原雅隆の怒りを招き、雅隆は孝元のみならず孝綱も解任し、承元四年までに国衙の有力在庁官人中原氏出身の孝高を惣検校(神主)に補任した。これに対して翌建暦元年六月に知行国主有雅が解任されたはずの孝綱を「神主」と呼んだ上で大社神田を引き募るよう命じている。朝廷・国衙・領家・幕府が協力するといういわゆる「権門体制」のもとで実現した合意は短期間で崩壊したのである。それとともに、鰐淵寺も順徳天皇即位という政治上の画期を利用して孝元が地頭である国富郷を拒否しようとしたが、結局は建暦三年二月の無動寺政所下文で押さえ込まれた形となった。
 領家と対立して神主を解任された国造孝綱は杵築社領本家である後鳥羽院の子土御門院庁に訴えて建保二年八月日の下文を得て事態の打開を図ったが、効果はなかったと思われる。一方鰐淵寺は国富郷地頭孝元の濫妨を幕府に訴え、建保四年五月一三日には孝元に代えて内蔵孝幸を地頭に補任する将軍家政所下文を獲得した。
 以上、二月二日国宣が建暦二年の可能性が高いことと、その背景と結果について分析した。

二月二日出雲国宣について2

 内容を確認すると去年一〇月に鰐淵寺から解状が提出され、知行国主のもとには一二月に到来し、これが年末年始を挟んで二月二日に国宣が出され、鰐淵寺側を批判しているのである。宛所がないが、鰐淵寺側に出されたもので、同様の内容は国衙目代にも伝えられたはずである。
 鰐淵寺側がなぜ国富郷を嫌ったかについてはすでに述べたように、承元二年一一月に国富郷地頭に杵築社権検校内蔵孝元が補任されていたからである。謀反人跡ではなく、朝廷(後鳥羽)と幕府(源実朝)の交渉により、国富郷郷司が地頭に切り替えられた。地頭の補任権は幕府にあるため、解任には幕府への申し入れと同意が必要となる。こうした状況に不満があった鰐淵寺側は、承元五年三月九日に順徳天皇代始により建暦と改元されたことで、過去の合意をリセットせんと訴えたのである。その意味では、鰐淵寺による解状の提出が建暦元年一〇月で、国宣は翌建暦二年二月二日のものである可能性が大きい。
 当時の出雲国司について確認すると、前述のように知行国主藤原範光のもとで、その娘を室とする源有雅の子敦賢が建仁三年正月に出雲守に補任されたが、範光の出家(承元元年)と源有雅の蔵人頭(承元二年七月九日)、参議(承元三年正月一三日)補任により、有雅が知行国主となった。建暦元年六月日の出雲国司庁宣に袖判を加えているのが有雅であり、奥に「大介源朝臣」とあるのは庶兄敦賢であろう。嫡男資雅は承元三年に侍従、四年従五位下、建暦三年周防権介というように国守を経由しないで昇進している。その後、建暦三年には前述のように藤原長定が出雲守に補任されるとともに、関東に祗候し、和田義盛の乱で勲功をあげていた。
(補足)建暦二年二月日後鳥羽院庁下文の署判者に前出雲守藤原朝臣がみえる。知行国主源有雅のもとで、敦賢の前任の出雲守であろう。

二月二日出雲国宣について1

 ①『出雲鰐淵寺文書』に続いて②『出雲鰐淵寺・旧蔵・関係文書』が刊行され、その巻末には両者を併せた編年目録が掲載された。前述の後深草上皇院宣の扱いは微妙で、目録では②に収録された「忌部惣社神宮寺恨元禄」の弘安四年五月の記事がその前に配置されたため、弘安四年と考えられているのかもしれない。ただし、それを除けば①の文書がそのまま配置されている。そうした中で表題に関わる年未詳の二月二日出雲国宣と六月八日佐々木泰清書状の年次が問題となる。特に前者は大社町史では井上寛司氏の論文での分析を踏まえて建暦三年二月日無動寺検校政所下文の前に配置されており、内容を勘案するとそれで良いと考えていたので意外であった。
 泰清書状からいくと、泰清が信濃守に補任されたのは正嘉二年二月三〇日で、『吾妻鏡』同年六月四日の勝長寿院供養の随兵にも「信濃守泰清」とみえるが、八月一五日鶴岡放生会の時点では「信濃前司泰清」と変化している。弘長二年七月二四日(書状に異筆で年号を付加、ただしこの文書について佐伯徳哉氏「中世前期の出雲地域と国家的支配」では鎌倉遺文そのままに「弘(安脱ヵ)参年」七月二五日とし、年と日が違っている。原本・写真でのチェックがなされなかったのだろうが、後述のように弘安年間には出家しているので、確認が必要である)から同一〇年にかけての発給文書では「前信濃守」と署名している。そして建治三年に比定できる五月七日書状では「沙弥」と署名して、出家が確認できる。その花押は建長年間までのものと弘長年間以降のものとの間に違いがあり、六月八日書状は弘長二年七月二四日書状の関係文書で、弘長三年頃のものであろう。
 これに対して二月二日書状の年次比定の材料となるのは「恣任年号之次第、可被免除之由申之」であろう。文永一二年四月二五日に後宇多天皇即位による代始に基づき建治と改元されているが、これを念頭に置いて考えたのだろうか。単に改元しただけでは不十分で、天皇が交替したことで、国富郷について国衙と和与した内容を変えようとしたのだろう。ただし、この結末が建暦三年二月の無動寺政所下文だと考えられるため、二月二日書状はそれ以前のものである。

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