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2018年4月12日 (木)

杵築社領の立券6

 忠光排除のため政府が派遣した中原(坂上)兼成(兼重)の経歴を確認すると、乱後の保元二年正月二四日に、それまでの正六位上左衛門大志兼明法博士から右衛門少尉正六位上に補任されており、乱の戦後処理として出雲国に派遣されたものである。それまで忠光のもとにいた国造兼忠が、神主忠光は讃岐院の関係者だとして訴えたのである。その後、一旦杵築社領は国衙領に戻され、平治の乱との関わりで一時的に失脚していた久安の遷宮を行った藤原光隆が治部卿に還任され、公卿に進んだのをうけて、後白河院を本家・光隆を領家として所領の再寄進が行われ、国造兼忠が神主に補任された。国造が神主に補任されたのはこれが初めてであった。しかし神主は、請文を提出した候補者から領家が補任するもので、後に国造義孝が主張するような「国造兼神主」というのは事実ではなく、国造が譲状に神主を書くことはできないものである。
 それが、領家藤原家隆が嘉禎三年(一二三七)に死亡した時点で成人した後継者がおらず、その跡はその死を看取った松殿基房の子忠房室となっていた女性が管理した。その一方で、杵築社の造営が行われるが、国衙と杵築社政所には過去の造営史料が残っていなかったため、仮殿造営の際に、国造政孝が神主に起用された。その後、神主は出雲真高や内蔵資忠の子孝元が補任され、正殿造営が開始されたが、これまた旧記の欠如(国造側は写なども提供しない)ため、政孝の子義孝が神主に補任され、宝治二年に完成し、遷宮が行われた。
 すでに述べたように領家が補任権を有するため、国造以外が神主に補任されるのが普通で、時に国造が補任されるというのが、国造義孝以前の状況であった。それが領家の死と後継者の関係で領家が主導権を発揮できなかったことと、正殿造営に時間がかかったため、結果として義孝が初めて長期間にわたり神主を務めたこと、さらには承久の乱により国造のライバルとなりうる有力在庁官人が没落するという条件がからんで、結果的に国造兼神主となった。ただし、家隆の後継者である松殿兼嗣(忠房と光隆の孫娘の間に生まれた)が成長し、主導権を握ると再び国造以外の人物が神主に補任されるようになった。これに対してまたもや国造にとって追い風となったのが文永七年正月に神殿が焼失したため、造営が開始されたことであった。ライバルとなった出雲真高・実政父子が神主に補任されて、国衙目代ともにこれを担った。当初は関連神社である阿式社に則って造営すべしとの命令がだされたが、知行国主と国守の交代により、旧記に基づき造営せよと変更された。国造のもとには従来の旧記に加えて、宝治の遷宮にいたる仮殿造営と正殿造営の記録が残されていたのである。それを可能としたのは領家不在という特殊な状況下で、国造義孝が国造としてははじめて長期にわたって神主の地位を保持したことであった。

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