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2018年4月22日 (日)

史料の保管元5

 ただし、天福元年(一二三三)には神主真高が刃傷の狼藉を働いたとして、領家は内蔵孝元を神主に補任した。『吾妻鏡』にその記事が収録されていることから、幕府と領家の間で話し合われた結果であったと思われる。ただし孝元の神主在任期間は短く、二年後の文暦二年六月八日に領家某(家隆とされてきたが、花押から別人とすべき。雅隆の子重隆ヵ)が神主に対して造営文書(旧記)を披見して年内に棟上げを行うことを命じているが、旧記を保持する国造義孝の拒否により進展の見通しがなく、九月には真高を更迭した新たに国造義孝を神主に補任している。従来は領家家隆がこの二年後に八〇才で死亡したとされていたが、重隆も後継者がないまま、寛元三年(一二四六)に死亡している。造営が進む一方で領家の体制は安定せず、これにより結果的に国造義孝が安定的に神主に補任され続けたと思われる。そして宝治元年(一二四七)一〇月日杵築大社神官等申状にみられるように、惣検校のみならず権検校も「孝」の字から国造家関係者であることがわかる出雲兼孝が務めている。これにともない権検校であった真高関係文書も入手したのだろう。また造営が進む中、暦仁二年には二度の関東御教書が出され、地頭に対して無足御材木と桧皮を負担することが命ぜられているように」、幕府・守護との協力体制も構築された。弘長二年(一二六二)一二月三日に国造義孝は国造と惣検校を重代相伝だとして嫡子泰孝に譲っているが、国造の譲状として確かなものはこれ以降のもので、これ以前のものはすべてに要検討=記された年紀以後に作成されたものである。
 文永七年(一二七〇)正月に杵築社で火災があり、神体こそ被害を免れたが本殿が焼失した。これにより予定より約一〇年早く、次の造営に取り組むこととなった。領家松殿兼嗣は国造泰孝に代えて出雲実高の子実政を神主に起用したが、国造側は義孝が復帰するとともに国司や幕府と結んで対抗した。幕府と国造の関係を示すのが建長元年一一月二九日将軍袖判下文であり、その発給に守護佐々木泰清が関与した。承元二年九月六日の御下文に任せてのものであったが、前回は後鳥羽院と将軍実朝の緊密な関係を背景とするものであったが、今回は守護泰清が重要な役割を果たした。泰清は六波羅探題評定衆を務める有力守護で、出雲国に下向して遷宮の儀式にも関わっていた。出雲国では承久の乱以降、義清-泰清-時清・頼泰-貞清-高貞と佐々木氏が守護を相伝しており、守護の果たす役割が大きかった。義孝の花押が当初のものから変化し、泰清の花押と類似したものになったことも、守護との関係を示している。義孝の子は泰清の一字を許され泰孝と名乗っている。

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