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2018年4月22日 (日)

史料の保管元4

 承久の乱で出雲国衙の有力在庁官人のほとんどは没落した可能性が大きい。勝部宿祢に次ぐ地位を占めていた中原朝臣も同様であった。これに対して、杵築社領は後鳥羽院から土御門院へ譲られていたため、受けた影響は最小限であったと思われる。国造の最大のライバルであった中原孝高は没落し、孝綱の弟政孝が神主に補任されたが、権検校は出雲頼孝の子真高が継承した。領家藤原雅隆が貞応三年(一二二四)に死亡し、雅隆の娘を室としていた弟家隆が継承した。
 承久の乱後、持明院家行が知行国主になり、そのもとで嘉禄元年正月には出雲国守護佐々木義清が出雲守に補任された。家行の父基宗は源頼朝と関係が深い上西門院の女房因幡を母とし、基宗と上西門院女房帥局を室との間に生まれたのが家行であった。基宗の従兄弟一条能保は頼朝の妹坊門姫を室としていたが、坊門姫は兄頼朝から得た所領をその子に残している。家行の子家定は幕府の重臣二階堂基行の娘を室とし、その間に生まれた基盛は関東に祗候し将軍頼経の側近となっている。また家行の娘は頼経の室となっている。
 この家行が嘉禄二年二月に五二才で死亡し、二条定輔が知行国主となったが、家行より一二才年長であることもあり、翌三年七月に六五才で死亡した。その後任の知行国主は藤原光隆の娘を母とする平有親(一一九四~一二六一)であった。杵築社の領家である家隆の甥にあたる。有親は杵築社正殿遷宮とその後処理が終わる建長元年まで知行国主であったが、建長三年の知行国主であることが確認できる嫡子時継がその跡を継承した。時継は文永元年一〇月まで知行国主であったが、父有時とともに不遇であった時代の後深草上皇を支える廷臣であった。
 政孝は権検校真高の訴えを受けた領家により一旦更迭されたと思われるが、本家承明門院に神殿造営と相伝をアピールして神主を安堵され、領家からも再補任されたとおもわれる。領家家隆の娘が土御門院とその母承明門院に仕えており、承明門院の意向は効力を有していた。ただ復帰後の政孝は依然として所領面で権検校真高を圧迫した。これに対して領家家隆は真高への圧力を禁止し、真高を度々安堵した。
 嘉禄二年(一二二六)には杵築社本殿造営が問題となったが、前神主中原孝高の没落により、杵築社政所に保管されていた造営関係史料の多くは散逸し、国造家が建久二年解状を提出する際に作成した旧記が重要な意味を持つようになった。旧記を保持することが政孝が神主に補任・再補任された背景となったが、嘉禄三年に仮殿遷宮が終わり、正殿造営が進行する中、領家は権検校であった出雲真高を神主に補任した。元仁元年(一二二四)に領家を兄雅隆から継承した家隆が杵築社領の状況を把握すると、主導権を発揮したのであろう。国造政孝が死亡し、その子義孝に交代したことも影響したと思われる。

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