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2018年4月11日 (水)

杵築社領の立券4

 すなわち久安元年段階ではなお庄園としての杵築社領は成立しておらず、光隆が遷任する久安二年一二月までに寄進が行われたのである。国司の交代期を選んで寄進・立券が行われるのはよくあることである。ただし、この時点で治天の君である鳥羽院の院庁下文が出されたのかは不明である。これがなかったがために、保元の乱後、国衙領に戻されたとも考えられる。そして前に述べたように、建久元年の遷宮の仕上げの時期に神主であったのは内蔵忠光の子資忠であった。建久元年の史料が残されなかった最大の原因である。
 現在残されている「治暦・永久(実際には治暦・天永が正しい)旧記」は、建久元年の遷宮終了後、再び神主が国造孝房から内蔵資忠に交代したため、国造側が在庁官人を巻き込んで神主職補任を勝ち取るために作成・提出した解状の具書として関係部分が筆写されたものである。そのため、資忠が中心となって進められた建久元年の遷宮に至る記録は写されなかった。それを写せば、国造側の主張が誤りであることがわかってしまうからである。訴訟の結果は幕府の推薦を受けた資忠が神主に再任され、旧記は生きなかった。これが再び日の目をみたのは、承久の乱後の仮殿造営時であった。造営が進まない中、旧記を所持する国造政孝が神主に補任されたのである。
 国衙在庁官人や国造のライバルとして神主を務めた中原孝高は承久京方で没落してしまった。孝高は在庁官人の中で勝部宿祢一族に次ぐ勢力を誇った中原頼辰と国造家の女性との間に生まれていた。これに対して、杵築社領そのものは承久の乱に関与しなかった土御門上皇が本家であったこともあり、ほとんど影響を受けなかった。その中で、国衙や杵築社領政所に保管されていた造営関係史料も失われたのである。それほどに承久の乱が出雲国に与えた影響は大きかった。中原氏に代わって国造と神主の地位を争ったのは出雲(松薗・佐伯氏の論文では「中原」と誤った記述)実高であったが、造営関係史料として残されていたのは建久二年の裁判のため国造側が作成した写しのみであった。これにより国造は神主として復活したのである。

 

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