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2018年4月22日 (日)

杵築社本殿焼失と神主3

 翌建治二年二月にも重ねて領家兼嗣が国造義孝を惣検校に補任しているが、その下文には義孝補任の背景がより詳細に述べられている。実高・実政父子が阿式社の寸法に基づき造営を行うべしとの院宣が出されたことを主張したのに対して、義孝はそれでは前回の造営は進まず、造営文書を所持していた父政孝が神主に補任されて初めて造営が行われたことを主張した。実際に残っている文書をみると、嘉禄二年七月に領家が政孝を補任した下文には、提出された請文に基づき補任したので神事と年貢など所役を勤仕せよとしか述べられていない。これに対して文暦二年九月に義孝を神主に補任した下文では相違無く造営を行うよう述べられており、義孝の主張にも脚色が加えられている。
 以上のように、本殿の焼失と国造義孝から泰孝への代替わりのすきを突く形で実高・実政父子が神主に補任されたが、造営が進まないため、泰孝ではなく父義孝が復帰する形で国造が神主に復帰した。義孝は弘安四年には造営は国造兼神主が行ってきたとの申状を作成した。ただし、造営は順調となったとはいいがたく、仮殿遷宮が弘安一〇年頃になってようやく行われた。一方、出雲実政は杵築社領の本家が交代したことにともない、領家も松殿兼嗣から某御房や廊御方に代わったことで、再度神主に補任された。これに対して国造泰孝が幕府に訴え勝訴したが、実政は越訴し、それにも敗れると今度は領家のもとで預所に補任されることで、神主である国造泰孝を圧迫し、泰孝がこれを訴える形となったことは前述の通りである。

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