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2018年4月22日 (日)

史料の保管元3

 ところが朝方と政綱に対して頼朝は、奥州藤原氏のもとに逃れていた義経と結んでいるとの疑惑を抱き、後白河院に対して両人の解任を求め実現したが、実際の標的は政綱であり、その幕府への引き渡しを確認すると、朝方は杵築社造営も行ってきたとして知行国主復帰を認めた。ただ、目代政綱の解任は協力して造営を担ってきた資忠の立場を弱めた。資忠は鎌倉へ二度も下って立場の強化を図るが、かえって杵築社の最高責任者が二度も留守にするのは問題との批判をあびた。また、隠岐国在庁との一面を持つ資忠に対しては、隠岐で国務に従事せよとの批判も出された。この結果、造営が完成したこともあって資忠は神主を更迭され、御神体を抱懐する国造孝房が神主に補任された可能性が高い。
 ただし、遷宮が終わると、資忠が神主に復帰したため、国造孝房は出雲国在庁官人を巻き込んで本家である後白河院に訴えたが、決定権を持つ領家は資忠を神主に補任し、頼朝もそれを安堵する下文を与えた。
 状況が変わったのは資忠の死であると考える。このため国造孝房の嫡子孝綱が神主に補任されたが、領家は孝綱を牽制するため、神主の権限を分割した権検校を新設し、資忠の子孝元を補任した。幕府も孝元を出雲国内数ヵ所の地頭に補任したが、これが可能であったのは、後鳥羽院と将軍実朝の関係であり、知行国主が後鳥羽の側近源有雅だからであった。国造孝綱もまた幕府から国造領である大庭・田尻保の地頭に補任された。
 このような関係は孝元と孝綱の対立により短期間で崩壊した。孝元には権検校としての神供を務めない問題があり、孝綱は国衙・幕府に訴えることで、孝元の排除を図った。ただし、権検校補任権を持つ領家の意向を無視したため、領家は権検校孝元だけでなく、神主孝綱も更迭した。新たに神主に補任されたのは国衙の有力在庁官人中原頼辰と国造家出身の女性の間に生まれた中原孝高、権検校には出雲宿祢一族の頼孝が起用された。これに対して国造孝綱は国司と本家土御門院と結んで対抗したが、領家はそれに従わず、中原孝高-出雲頼孝の体制が承久の乱まで続いたと思われる。
 建暦三年八月二一日に領家藤原雅隆(光隆の嫡子)が、杵築神主に対して杵築社領の知行を安堵しているが、出西郷・出西富・高墓(浜)・石墓(塚)村と稲岡郷は別納の地なので、それ以外を知行せよと安堵している。出西郷(或いは富も)が宗孝の一族が開発した所領であったことはすでに述べた通りである。高浜・石塚・稲岡も有力在庁官人が開発し寄進した所領であったであろう。

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